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見たかったんだろ

 追憶をすれば、二十年。  彼とこの塀の中で、その数の年を巡ってきたことに、驚きと感慨の、静かだが(しお)といえるものが、まさに時を流れる川のように、彼と過ごした切り取られた情景を連れて、この胸に旋回してくる。  若く将来を有望視されている証で、転勤で不在の数年も幾度かあった。  だがやがては、いつの間にかこの場所に戻っていて、塀の中での毎日を、殆ど彼と顔を合わせていたような感覚にとらわれる。  受刑者と刑務官。受刑者(俺たち)は浄らかな水に浮く油のような存在だ。彼等はそれを秩序と毅然で覆った手で掬い、浄化する。決して交わることはない。  それが天川の喪失で、彼の黒い眼のひたむきさ、熱の確かさを知って、少しづつ測りかねていたその距離が変わる。  先導する、濃紺の官服の肩。常に的確で簡潔に下す指示。少し下方にある制帽の陰から伸びる(うなじ)は、いつも清涼に刈られていた。  その前を向く顔が振り向いて、指示が通されているか黒く研がれた眼が射るように確認する。  はい、と諾の言葉を返せば、頷くような一瞥を残して直ぐ前を向く。心地の良い、引き締めの敷かれた距離感。  『親睦』、なんて結べる間柄では前提からしてない。甘えという概念自体生じず、どこまで胸を開いて良いのか、よく悩んだ。  溜め息、抗弁を呑み込むようなことも何度もあった。  何が解る。それを言われるのか。こちら側の言い分が口をつきそうで、でも力技で棄却して、顔を合わせるのも塞がれて、表情に引き摺っていた。 『どうしたの? ……昨日収史(しゅうじ)に叱られたの、まだ怒ってるの?』  隣の廣さんの可笑そうな囁きが、腕への小突きとともに朝の点呼後の空気に溶ける。 『別に……』  同じように嘆息を空気に混ぜようとしたが、もう気取られていた。 『そこの衛生係! 必要な会話なのか!』  彼方から矢のような一喝が飛んできて、切り替えの着かないもたつきは、目前にやって来た颯爽とした風に流される。   『高階』 『はい……』 『お前に、頼まれて欲しいことがある……』 『……はい』 『……お前じゃないと、きっと手が届かない』  目を合わせず、俺の胸に向かって独り言を落とすようなその姿に、思わず目を留めてしまった。『…………はい』 『……何をにやついてる』 『にやついてません』  行くぞ、との声掛けもなく、もう足早にその背が前進している。  追いながら振り返れば、調理場へ向かう廣さんの横顔も、笑いを噛み殺していた。  どれくらい時が経ったか判らない静寂の(へや)に、一度退室した園山が再び入室する光が挿す。  密やかな気配が、添うように背後に(とど)まった。アクリル板の向こうにいた未景(みかげ)の姿は、とうに消えている。  沈黙の終わりが見えない流れに、不意に、温かな布のような感触が、背をさするように広がった。生きている、ひとの掌と指の感触。  その撫でさすりは、ひどく静かで優しいのに、 尽きたと思っていた感情の奔流が、またひくり、と導管を刺激されて、ねじが緩み、たかが外れて、 やがて机に突っ伏し、抑えに抑えた嗚咽が突いて、決壊し、子供のような泣きじゃくりに転じていた。    後にも先にも、誰にも見せられない。  大の大人が、堪えきれずに声をあげて泣く姿を、静かに、遮る音を何も発さず、その掌は、ほとばしるばかりの慟哭がいつか鎮まるまで、柔い布のようなさすりを、肌の熱を絶やさぬままに、いつまでも続けていた。  映写のように繰り返される残像が、今は確かに年輪が加えられて、肌にも貫禄を感じるようになったその姿に重なる。 「見事自力で娑婆(しゃば)への生還を勝ち得た高階には、(はなむけ)にこれをやろう」  官服の胸ポケットにある刑務官手帳を取り出し、そこに挟んであった紙片を、歩み寄って俺のジャケットの同じ場所へとしのばせた。 「これは……」  差し入れられた紙片を、取り出して開く。 「天川が眠る(いる)霊園」 「…………!」  園山の顔と、紙片とを交互に見比べる。  紙には、園山の(じか)と思える達筆で、郊外の住所と苑名、連絡先が記されていた。 「……相変わらず(わっか)りやすい顔するなあお前は」  もう初老も良いところなんだから、もっと締まった顔しろよと、伸ばされた掌でぐしゃぐしゃと頭を掻き混ぜられ、仕上げに額をぺんと締められ、「(いて)、」と漏らしつつ、 こみ上げる感激でその文字から目が離せない。 「有難うございます……。これが、これだけが気掛かりで……。 園山先生にも会えなくなって、山下先生にでも、お訊きしようかと思ったんですが、……言い出せなくて」 「最後まで、俺の仕事の出来ぶりを目の当たりに出来て、良かったな」  その通りですね! と心から返したら、呆れに近いような苦笑で視線を逸らされてしまった。  その眼が向かいの沿道へと移る。 「それにしても、まさに、満開だな…………」  沿道にも四方にも、春を体現する染まる頬のような、柔らかな花霞がこんもりと点在している。 「……ちょうど、同じ時季だったな」  薄紅へほそめられた園山の視線が、わずかに下げられた。 「見たかったんだろう? 桜。…………天川と」

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