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違う地平で会えたなら

『お前、諦めるなよ』  こころの柱を喪ったようで、支えられているのに(ちゅう)を歩いているようで、 彼の最期を、仔細に落としこまなければならないのに、容れるのをどうにも拒みたくて、顔を上げることが出来なかった。  その腑抜けの身体に、掌から熱い熱が注ぎこまれて、開いたように、こころの奥が(みは)られた。  その時、初めて彼の(つよ)く黒い眼を、真正面から視すえた気がする。  ただただ、若い刑務官の一人だと思っていた。  未知の極刑にふれ、手に手を携えて、その眼でひとひとりの生命の終結を見届け、彼の精神(こころ)だって、凄まじいうねりの収拾を着けようもない状態だった筈だ。  黒い眼のなかで、逸らしようのない熱とひかりが俺の魂魄(こんぱく)をとらえようと閃いていた。  そしてその眼で視ていたのは、天川でも自身でもなく、だった。  最後まで諦めるな。  いま、進む気力も、感情を息づかせるのも、すべて棄ててしまいたいのなら、それでいい。  自分を棄てて構わない。お前を生かしてくれる、信じて託してくれた、そのひと達のために少しでもこころが振れればいい。  そうすれば、自分のこころは、 必ず自分のもとへ還ってくる。  説かれ、熱を託されても、暫くはその言葉の意味をかみしめることも出来なかった。  だが、後々立ち止まった時、この言葉ほど俺に()つ意志を見出させるものはなかった。  起つことを手放さないため、ただ俺のために、彼がちからを尽くしてくれた言葉だった。  それを、『導き』ではなく何といえるのだろう。  年齢、立場、それらの外郭を超えて、天川を喪い、この身の変遷に揉まれ、沢山の別れ、千景の旅立ちを経てなお、 鎖された塀の中で生き続け、この地平に来れたのは、 道の脇からであったとしても、園山(かれ)がいたからだ。  それを、伝えたかった。  あんたがいたからだ。  あんたが俺の、『先生』だったからだ。  門外へ出て、その大気になぞられ、『受刑者』の枠から、ついに緩んだ表情が滲んでしまったかも知れない。  それでも、素の俺の表情(かお)で、彼へあらわす限りの謝意と敬服を見せて、知って欲しかった。  目の前の園山の微笑から、それを漏らさず、まるで花束を受け取って片腕で抱えるくらいの気負わなさで、汲みとってくれたのが見てとれた。 「…………何でこんなところにいるんだろうと思ってたよ」  彼方に向けられた園山の表情に、過剰な照れや狼狽えは浮んでいない。そこに彼らしさを見る。 「この地域で二十代のうちに消防司令補って、中々だろ。現場の中隊長クラスだ。将来の署長候補だったんだろう。……それを、漲るばかりの貴重な三・四十代を、こんな所で潰しちまうなんてさ……」 「……」 「毎日毎日、贖罪の日々とはいえ、歳下のこんな偉そうな奴を『先生』と呼んで、ぐちぐちぐちぐち扱かれてさ」  一回りとまではいかないが、まあまあ歳下であろうということは、節々から判っていた。 「どうにかならないのか、どうにかしてやれないかなあと思ってたが……、 まあ、どうにかなったな? 持ち前のフル装備(スペック)で」 「…………うん」  狙っている訳じゃきっとない。だが塀の外で彼も鉄線を解いて、差し向けられるように言葉を紡いでくるものだから、 とうとう、本音の表情と言葉を、体面(かわ)を剥いて見せてしまっていた。  違う地平で会っていたら、と思う。  改めなくとも囚人と看守。はなはだ奇妙で、どう踏んでも好運とはいえない取り合わせだ。  だが、この関係でなければ、この位置でなければ、 今まで積み重ねてきた労苦、断たれた希望への失意、目の前のその存在を信じていいのかも知れない、という微かなひかり、 そしてきっと、この線の上での繋がり以上のものは、生まれなかったのだと確信している。  それでも、思う。  もし、俺が罪を犯さず、何の障壁にも捕われていない身体で、 同じ目線で、同じ場所で言葉を交わして、肩を並べる生き方をしていたなら、どうなっていたのだろうと。  そう馳せてしまう夢想をはらむほど、目の前の園山という存在は、 得難い毅然と柔和さを携えて、今は門外の晴れわたる空気に包まれ、微笑んでいる。

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