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それでもあなたが

 刑務官は原則笑みを湛えない。所内の保安と秩序維持を主幹とし、刑者の鑑となるよう、己も厳しく律する必要がある。  刑者に間隙(すき)を掬いこまれないように。『情』を前面に押し出した応対は、まず履き違えている。  園山も、聡明な顔貌が冴える能面を常に貫いていたが、そこからは、生きた揺らぎや信念がまぎれもせずに仄見えていた。——今も。 「法務大臣から執行命令が出て、天川の執行に携わることになって、五日間、遠くからあいつのことを視ていた。 執行は、事前に対象者に気取られることは、何としても避けなければならない。俺は担当じゃなく、取りたてる接点もなかったから、問題なかった。 俺にとっても、初めての係わりだった。余計な私念にとらわれず、あいつも、俺も、五日をやり過ごして、少しの滞りや労苦も取り除き、異状なくその日を迎えて『遂行』しさえすれば、良いのだと……」 「……」 「改めてあいつを見つめているうちに、……気づいたことがある」 「……」 「あいつも、人間(ひと)だと。受刑者である前に、ひとりの人間だと。 当たり前だが、特に何も起こらない、変哲のない日々だった。単調にその日をやり過ごしていく時間……。 だがそれでも、あいつの、天川の身体には、日々ささやかな生命(いのち)が確かに息づいていた。 ……俺は本当に目先が暗いな。単調にも見えるその繰り返しも、かけがえのない塊だったんだ。 ……知ってたかどうかは判らないが、そのなかでも、あいつが唯一人間らしい感情というか、温かさや恥じらい、若い皮膚から溢れでるような、素の表情を(ほど)いて見せていたのは、お前の前だけだった。 というか、他の奴なんかそもそも眼中に入れていない、離れていても、お前のことしか見ていなかった」  どこを見つめていいか判らず、ただ空を睨む。  澄みきる、ひかり。温かさ。  誰かも見ているのか。その誰かのような澱みのないきよらかな空気を肺に取り入れて、 この胸に去来する熱い揺るがしを、彼の静謐さで満たして、鎮めようとする。 「……俺は、徐々に惑ったよ。このささやかな生命(いのち)を、受け止めることが出来るのか。もうその時には機械のようにあいつを送り出すことは、嫌だと思っていた。 あいつの苦しみ、怖れを、少しでも拭い払い平穏な境地で充たしてやれるのか。そして俺は、俺も、その時平常でいられるのかと」 「…………」 「判らないまま、その日を迎えた。……あとは、あの朝に伝えた通りだ。結果として、至って問題は起こらなかった。あいつが、至極立派だったからだ。 ……讃える、という言葉をいくら使っても足りないくらい、偉かったなあ。本当に。 俺だって怖ろしかった。情けない。あいつの方が何千倍も怖ろしかったろうに。だから握ったよ。あいつの()。構わないから、望む限り連れて行けって思った。 ……恥ずかしい話だが、『園山! 天川を動揺させてどうするかあ!』と主任からは叱責されるし、俺の方がよっぽど切羽詰まった状態になっていた。 天川の方がぽかんとしてて、穏やかだったな。静かだった。とうに、自分のこころを一度定めていたんだろうな。 俺の方が受け容れられた気がして、そして、託されたよ。しっかりと。 ——それは、お前に残らず渡しきった」  眼の前に掲げていた右()を凝らすように見て、それを握りこみ、園山は俺に眼を移した。  憶えている。今も知っている。残っている。  忘れたことはない。ふたり分の温もり()。  そして、俺には成し得なかった、あなたが天川の傍にいて、その掌をつよく包んだ、 それがあったから、間違いなく彼はひかりのなかへと発つことが出来たんだ。  園山に眼を合わせなくとも、この左掌を握りこむことで、彼に応えて、それを伝えられていると信じた。 「天川の熱はなくしたくなかった。この熱は、俺のなかに残して、未来(さき)へ繋げていく必然になる。 ここに蠢いている奴等の生命(いのち)……。それに添うことで、ひいては、この生きる社会へ還元されていくものになるのではないかと。俺の心持ちが、水を流れるようにそう辿った。 天川が、いのちを以て注いでくれた……」 「……」 「あとは、個人的な事情で悪いが、……紡希(つむぎ)が生まれたのは大きかった。もう俺だけの生じゃないと。己を滅してでも、添わなければいけないもの、その存在(いのち)を護らなければならないものがある。 お前の調書にもよく目を通したが、何度も胸に問われるものがあった。果たして、俺がお前と同じ立場なら、『対極』でいられるのか。お前に、(ことわり)のみの審判を下すことが出来るのかと」 「…………」 「そうやって、関心ないと切り捨てていた受刑者(お前達)に揺り動かされて、今、この位置にいる。ずっと、惑って問うたままだよ。 導かれてるのは、きっと俺だ。……だが、ひねた性根は中々直らないんでね。他人の人生に深入りはごめんだ。あくまで俺は道の脇で観ている域を超えない。その考えは変わってないよ。 ……職務だけはこなして『看守長』の皮を被ってる、こんな奴に、先導する『先生』と呼ばれる、謂われはないんだよ…………」  曲がらない精気。彼の凛然とした立ち姿に、揺れ動くこの身はいつも皮膚から締まる思いがした。  それが、常に敷かれていた鉄線が僅かに解かれて、苦味を帯びた自嘲の素の笑みが、湛えられている。制帽の陰で。この門外で。  答えは、変わらない。うちでも外でも。  鉄線を纏っていた彼に、覚えず俺は、ありのままの姿で、見せてばかりいたようだった。  最後まで、それは変わらず、いつの間にかこの内の楔が融解していた俺は、こころからの言葉を、気負いなく彼に手渡していた。 「それでも…………。それでも、あなたが俺の『先生』であるのに、変わりはないですよ……」

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