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彼女の家庭

 楓が肉親の情ゆえに、父親を庇いたてている訳ではないということがよく判る。  最も近しい場所に立ち、家族への慈しみをひとしく持ち得ながらも、あくまでも眼差しは理知的に見つめていて、実際に、"そう"だったのだろう。  だが、結果としてどうなのだ。  俺自身にも覚えがあるが、子どもというものは、この世に生を受けた瞬間、自身と寸分違わない価値と激動が放出して、それまで見ていた世界が一変し、子ども自身をも覆い尽くす深い情動に捕らわれる。  それを、引き剥がして、子どもを一個の存在として認め、寄り添いながら導いていくのが、親としての先ず試練だと俺は考えている。  天川を、尊い宝玉のように慈しみ、そして覆い尽くすほどの情愛で(くる)めてしまいたいその気持ちに共感はしたくない。だが、それを覚えてしまうほどの抗いがたい衝動()、という範囲までは理解(わか)る。  けれども、詰まるほどに天川の肢体に纏わりついたその情念は、どうしても父親(個人)の夢想の域に押しこめ、天川の(かたち)を歪めているようにしか思えず、 透は透のままでいいと念じておきながら、彼の、彼のものだけである筈のそのこころと体、輝きを約束しなければならない『その先』の(みち)を、その触れた手にどう浮かべていたのか。  永遠に、彼を世界に、閉じこめてしまう積もりではなかったのか。  あの時、天川から明かされた父親との濃密な交歓(まじわり)、そして天川も、そんな父親を受け容れたであったかに見えたことまでも、どうしても俺はいまだ呑みこむことが出来ず、 楓の言葉にも応えず、苦渋をなめる険しさを浮かべたまま押し黙る俺を、それを見守る楓の瞳も、やはり静かだった。 「高階さん……」 「……」 「高階さんは、……お優しい方ですね」 「……」 「……兄が、手紙から漏らしていたもの、そして、実際に会って伝わってきたものが、……もう解る気がします」 「え……」 「そんな高階さんからして見れば、…………信じられないことでしょうけれど」 「……」 「私には、普通の家庭だったのです……」 「……」 「繊細な父、神経質にも見えるけど、家族のため奔走する母、物静かで控えめな兄……。理想的な、明朗で賑やかな家庭ではなかったかも知れません。 けれども、私にはごくありふれた、静かだけど当たり前に家族の温かさを感じられる、『家庭』だったのです…………」 「…………」 「私だけが、何も知りませんでした」 「……」 「母も……。……そうですね。でもきっと、認めたくなくとも、肌では感づいていたのでしょう。……"おんな"ですから。 私は、きっと『味方』だったのでしょう。同じ女として。 ……母には、いつから兄が、『敵』だったのでしょう。……哀しいですね。実の息子なのに、敵だったなんて……。 きっと、目の当たりにした時が、決定的だったんでしょうね。だから、もう、  駄目だったのでしょうね…………」 「…………、」 「私達の、いえ、私の家庭は、遠い昔から捻れていたのです。父も、母も、兄も。捻れた闇い闇のなかで蠢いていた。……いいえ、私だって、そのなかで何も知らずに光を感じて生きていた 、私こそが歪んでいたのです。 ……兄は、そんな家庭から、(みな)が隠し続けた暗部から文字通り身体を曝して、私を遠ざけて、護っていてくれたように思うのです…………」 「……」 「いえ、……今となっては、判りません。 ……兄も、本当はその闇を啜って、 そこへ溺れていたのかも知れない…………、」 「……夏八木さん」 「ともかく」  切れ長の、伏せた瞳の下に浮かぶ、涙袋の膨らみが、昔よく見た陰影を縁取ったが、やはりそれは別人のものだった。 「私の家庭(いえ)は、あの日を境に 毀れました」  彼女の言葉の背後で、そのかたちが音もなく、こわれて砕けた姿(おと)が聞こえた気がした。 「……正直に、よく、憶えていないのです。あの日の付近のことは。 私は、中学の合宿で都外に出ていて、駅に着いたら、母方の親族が待ち構えていました。 逃げるように手を引かれて、落ち着いて聞きなさい。 もう家には帰れない。お父さんとお母さんには、もう会えない。けれど、今から会いに行く。 兄には、もう会えない。 よく、意味が解らない。何故、と問おうとするまでもなく、それを押し潰す沈黙が車中に既に充満していました。 ……夜、田舎の親族の家に向かうのは、厭ですね。滅多に会わないひとたち、家。行き先は判っている筈なのに、訳の判らない闇に向かってただ進んで行く感覚。……それですから、夜、車に乗って出かけることが、私にはもう難しくなってしまいました」  彼女が車窓から見た闇、彼女を呑みこんで背後へ滑り去っていくのに、また絶えず現れる沼の深淵へ没入していくような闇。  それは、彼女のほんの肌の先にあったのに目を塞がれていた、覆い隠せずに暴かれて染み出した闇の、続きなのだろうか。

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