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意味のない姿

「…………よく、解らないまま父と母とお別れをしました。涙も、充分に流れたかもよく判らなかった。あらゆる温度が判らず、ただ目の前の流れていくものを凝視していました。 それにしても、それも大事だけど、兄は、どうしたのか。 親族の大人達からは、中々きちんとした答えが伝えられませんでした。……詳細を聞けたのは、警察の方からだったと思います。 聴取、という形で。私は、ただ一人の肉親にして、被害者遺族、そして事件の、『被疑者』の、 ——……重要な参考人ですから」  ここに立って、『最も』らしい応えを返せる人間が、いるのだろうか。  楓を、止めた方が良いのではないだろうか。  だが憶えがある。俺と天川の、罪の、こころに押し隠した汚濁の発露。  天川に呼応して、千景にも言えなかった昏い澱みを撒いて、互いにそれを知り、俺たちは、(しん)を覆う膜の剥げた、生身の姿で向き合うことが出来た。  楓も、立場の(あきら)かな異なりはあれど、その波及した線上の最も近い場所で飛沫を浴びた存在として、 抱え続けた苦しみや屈折、それを、解き放つ存在、場所は果たして在ったのだろうか。  それを、今解き放つのであればそれで構わないし、彼女が真に伝えたいものとは、まだその先に確実に秘められている予感がする。  彼女の吐露を聞くのは、射るように苦しくもあると同時に、しんと静まる泉を前にして、そ深奥を見るためにそこへ繋ぎ止められている心地に似ている。 「……事実として、起こったことは判りました。 皆んな、初めはオブラートに包む風を装いながらも、『率直』に知っていることを聞き剥がそうとします。 警察の方は、兄の素行、家庭内における粗暴な言動の有無、異性との交遊関係、……性的指向。 兄が、『手に掛ける』のに充分な決め手を。 弁護士の先生には、『兄を(たす)ける』という名目を掲げたもと、両親の不和の如何、……私の学業成績。母の、私と兄に対する振舞いの差異。 父の、……父の、私が見ていた日常的な兄に対する"接触"は、本当は、世間から擦れた性が醸成されていたものだったのかも知れない。 それが、少しずつでも父の眼、指から零れていなかったか、出来る限りつまびらかにしていく『ふたり』の姿……。 ……私は、たった一人の情報源でありながら、『役に立つ』答えを、双方へ何一つ提供することが出来ませんでした。 だって、知りませんから。私には、私が望めば、どんなことでも大抵は叶えてくれる、物静かに微笑む兄の笑顔(かお)しか、知りませんでしたから。 ……こっそり女性とお付き合いしていたことがあったのも、知っています。 私にとっての兄の姿、そしていつも見ていた私の静かな家庭は、関係者の方から見れば、『無意味』な姿だったようです。 特に警察の方は、早々に私に興味を無くしました。けれども、兄を陥落(おと)すため、父と母の非を突き詰めるため、双方の遠慮は常にありませんでした」  千景は、きっと俺の表から裏まで、俺の性質や経歴に少しでも泥と転じる影がないかを、洗いざらい搾り出すように追及された筈だ。  だが、接する度にそんな苦境を受けているとはおくびにも見せずに、 『私達に隠しおおせる必要があるものなんか、何もない』。  始めから、俺と共に『闘う』姿勢を一貫として崩さなかった。  楓は、当時まだ成年にも遠い年齢であったに違いなく、本来傍で彼女を護る筈の家族の、知るに堪えない背後の顔や(とが)を、たったひとりで査問されて暴かれて、 今は、押し寄せた壮絶な悲壮が既に去って、凪を忘れた泉のような静けさを保つその姿をただ見守りながら、 もし、叶うなら今、天川の指を借りて、 今更、どうしたって遅い、だが彼女のあえかなその背に、 ——詫びるように手を添えたかった。 「親族達は、事件や、兄や、喪くした家庭から、私を護ってくれました。関係者の追及からも。 私は、姓を変えて母方の祖父母宅へ引き取られました。 兄のことは忘れなさい。透君はもうあなたの知っている透君じゃなくなったんだ。 ……そうだろうか。あまりにも皆んなそれを繰り返すから、そうなのかとそれを信じそうになったけれど、……そんな訳ありませんでした。 私がこうやって真綿に包まれるように護られている間に、兄は罪への直面を迫られて裁かれていく。 ……私は、行く必要はないとも言われて、法廷に足を踏み入れることが、中々出来ませんでした。隣室で、ただ息を潜めているのがやっとだった。 それでも、弁護士の先生から裁判の詳細や進行状況を口頭や書面で聞いていました。 ……徐々に、明かされていきます。警察も伏せていた、私の知らない、家庭内で行われていた、な有様が……」 「……」 「私と母が居ない時、父の書斎で、父と兄が、 何をしていたのかも…………」 「……高階さん」 「……」 「聞くに、堪えないのではないですか……」 「……俺は構いません」 「…………不思議ですが、身内だからであるのか、おぞましいだとか、……忌避感は感じなかったのです」 「……」 「ただ……」 「ただ、 悲しかった…………」

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