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凍(い)る無彩
四方が無彩に覆われた面会室で、どこを見ていたらいいか判らず、握りこんだ甲の蒼い血筋や、アクリル板の先の机の照り返しを見つめていたら、
音もなく左方のドアが開いて、ひとの影が入りこんで来たから、
怖れたように、けどそれを気取られてはならない、と直視はしないように顔を浮かせました。
最後に見た、私の中で『兄』だと結んでいた姿、そして予想の枠に収めてこころが揺るがないようにと定めていた姿とは、
やはりそれは纏う空気、質感からも全く異質の、朧げに望んでいた輪郭をたやすく砕きとり、瞬時に遠く遠く重ならず、
揺るがす余地もなく、私のこころを冷えた巨きい何かで縛りこみました。
……男性の身内に対して、私は気恥ずかしい誇りを持っていたのだと思い知らされました。
兄の真っ直ぐに見えて、触れたくなるように毛先に向かって緩慢なうねりと艶を見せる黒い髪を、私は自分のものみたいに好ましく想っていたのです。
それが跡形もなく短く刈られていて、兄のこころを体現するような、闇にもならない曇天のように褪せた舎房衣を纏い、
元々細身なひとでしたが、削ぐ、研ぐ、といった形容で肉だけではないそのなかのものも抜かれたような肢体が、
血が通っているとは思えない、儚げだけど、昔見た弾力を感じる瑞々しさを含む白さとは、全く違うあおみもない皮膚で覆われていて、
音のない幽玄のひとのような歩みが目の前でふと止まり、眼からは唯一生物の反応を得るような、ちらとした燐光さながらの視線がこちらへ向かいました。
色々な感情が押し寄せました。
これは兄である。兄じゃない。兄だけれど、 兄だ。
圧倒的に、元気そうにしている。生きている。という安堵が大きかったのだと思います。
そこに変わり果てた、私の思いも寄らない修羅や、闇や、壮絶が業風のように押し寄せて、
そしてそのまま自分のものにして仕舞った、という痕跡がまぎれることもなく、最早肌のように備わっていた。けれども、
……父の口許にも、目を惹く黒子があるんです。
それが零れたような、私と対になる黒子が削がれた左の首筋に添えられていて、やはり兄であると。
掌で塞いでいたのに、もう声が抑えることが出来なくて、
兄はこんなに冷えた貌と眼でひとを視るようになってしまったのに、
私の目から零れ落ちる涙が熱いのが憎たらしくて、制服のスカートを重く湿らすのも鬱陶しくして、
泣いてはいけない。兄と会う前にそう誓った筈なのに、まるで守れなくて、
絶えていた再会を果たすや否や、ひと声もなく子どものように泣きじゃくり始めた私を前に、兄は、
『楓 、』と、
いつも私に呼びかけるまでもなく、あの静かで穏やかな声で囁くように、
『どうした?』と訊いてくれるのです。
けれど、もうその優しい声音も温かな瞳も、
私に向けてくれるものはありませんでした。
私の泣きじゃくりが、幾分弱まった頃合いでした。
やはり兄は、待っていてくれたのです。
けれども、私に掛けられた音 は、融解の息吹の欠片も望めない、凍 えたものでした。
「…………怖ろしいだろう」
しゃくりあげにまぎれてしまいそうで、私はそれを押しころしました。
「…………悍 ましい、人でなしの、 人殺しを目の前にするのは」
そんな恐ろしい言葉を、兄の口から聞いたこともなく、
表と裏で、その衝撃は私のこころを強く撲 ちました。けれども、
「違う……っ!」
「……」
「そんなこと、思ってないよ……っ……!」
「……」
じゃあ今、充分過ぎるほど、解った筈だろ。
どうしてここにいる。
お前をここに繋ぎとめる理由なんか、何もない。
そう漏らす兄の呟きが、沈黙する逸らした眼の影から、聞こえてくるようでした。
やはり、私には兄の腕を掴んで、振り向かせるちからはない。
そこへ不意に、父と母の、お訣 れした時の顔が浮かんできました。
「どうして…………!」
逸らしていた、兄の電灯を受けてひそやかに光る白眼 が私に移ります。
どうして? それを、私が問うことが出来るのか?
この、"私"が? ———いまだ何も知らないままでいる。
問い詰めて言い逃れた私を、兄は別の意味で捉えたようでした。
「…………ほら、憎い。 とても理解出来ないと、思ってる」
「…………っ」
確かに、憎い。どうして、あんな酷いことを。
苦しい。奪った、私から。何もかも。
家族を、———兄 までも。
けれども。
「…………それを、それだけのものを……、抱えていた、ってことでしょ……っ」
少しばかり知った風をかざした私の喘ぎは、やはり稚 くて付け焼き刃の上面 ばかりで、
兄の凍えて鎖じた胸には、響かないようでした。
「……それを解ろうが解るまいが、こんなところで、こんな犯罪者 を前にして、お前が使って良い時間や吸える空気は、ない。
帰れよ。 お前は、お前の居るべき場所へ」
『申し訳ありません。楓のことを、宜しくお願いします。
俺や、あらゆるばら撒かれた穢 れからは、一切関わりのない子です。
どうか、静かで、平穏で、しあわせな世界で守って、与えてあげて下さい。
それを受け取るのに当然相応しい、優しくて綺麗な、
とてもいい子 です』
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