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激昂、ひとすじの涙

 それは、兄から母方の祖父母、親族宛に、拘束されてから直ぐに差し出された手紙でした。  透君はあなたに関してはまだひとのこころを持っている。だから、あなたはこれ以上の苦しみをもう負う必要はないの。  よく知っている兄の繊細な直筆を見せられ、その時ばかりは共に涙しました。けれど、  また、兄は私だけ苦しみから遮断された真綿の世界に放り込んで、自分だけ、誰も知らない闇の沼底へ、その続きにひとりで浸かろうとしている。だから、 「…………こんな、こんなところに居て良い訳ないのは、 お兄ちゃんだって、同じじゃない…………!」  大罪を犯しておいて、おかしなことを言っていると思います。  だけど、私にとっては、でした。  本来なら、どんな言葉を掛けるのが適当なのでしょうか。  見舞い、気遣い、励まし。帰りを待っている存在を想い起こさせる、家の灯りのようなほの温かさ。  けれど、私が投げ掛けるのは、ただ兄の気を引きたい、その凍って背けた頬をこちらに向けて少しでも溶かせたいという、稚拙な詰りでした。  ()の駄々のような恨み言は、兄の水分の枯渇した樹のような、体幹をやはりふるわせません。  元々なだらかだった喉許の円い起伏が、肉が削げてより白く陰影も鮮明に浮き彫らせて見えたけど、呼吸のために、微かに上下したかに過ぎませんでした。  私は、ここへ来た本来の目的だった筈のものを、兄を腕を引くために持ち出しました。 「…………私、今度の公判で、証言台に、立つから」  初めてと言っていいくらい、兄の伏せられていた眼と尖った顎が、小さく私に振れました。 「…………は?」 「……山岸弁護士(先生)が、教えてくれたの。審理には、『遺族』の被害感情と、更生の可能性、望ましさが重要な判断基準になるって。それには、私の証言が、大きな力になるって……、」 「……そういうのは、お前は一切関わるなと、言ってある筈だ」 「私が勝手にやってるの! 私がしたいからやってる……、……ごめんなさい。怖くて、今まで何も出来なかったけど、私も、言うから……。 私もちゃんと言うから、お兄ちゃんも、」 「お前が何を、証言出来るって言うんだよ」 「お兄ちゃんが本当は、そんなことする筈の人じゃないって、決まってるじゃない! ……皆んなして寄ってたかって、残虐、身勝手極まりない、都合の良いところで嘘をついている、……お父さんだって、虐待なんかしてない、 本当は、ただ皆んなの、どろどろしたところを、ひとりで何も言わずに、受け容れてただけだって…………!」 「……証言するまでもなく、前半は事実だよ。後半は、お前の妄想だ。話にならない」 「何でそうやって自分ばっかり悪者にするの? もう良いじゃない、私だって、家族だよ。お兄ちゃんの『家族』だよ! ひとりでそうやって、勝手に抱え込んでどっか行かないでよ。狡いよ、意地張らないでよ、 私だって解ってる、お兄ちゃんのこともう解ってる、 お兄ちゃんはどんなことしたって、お兄ちゃんはお兄ちゃんだって…………っ」  私を、これ以上 もうひとりにしないでよ——、 「だからお前は、何も解ってないって言うんだよ!」  叫んだとして、兄の声は、大きくはなかったと思います。  だけど目の前から発せられた怒声、いつも潤沢に潤う黒瞳が蒼褪めたように退き、(いかづち)が撃つような白眼を剥いた眼光が放たれて、 私の身体を、びくりとふるわせました。  怒気を当てられたことより、経験のない驚愕の方が、大きかったのです。 「…………本当にうんざりだ……」 「……」 「お兄ちゃんはお兄ちゃんなんだろ? なら、だけ見てれば良かったじゃないか。——今更何だよ。だって、そうだろ? お前はずっとずっと光の中で生きて、『そこ』で見てきたんだから。それで、良かったじゃないか」 「…………違」 「違わないだろ。お前は昔から、天真爛漫、純粋無垢、天使のように、頭も良くて、母さんの希望の星で。 そんなお前に、俺の何が解るっていうんだよ。解らせるつもりもない。んだよ。 だから言っただろ。帰れって。お前はお前の、光の世界へ」 「…………やめてよ。違うよ……、」 「やめるのはお前だし違わないよ。だってお前は、そうやってずっと、何の穢れも汚ならしい醜いものも一切見ないで、生きてきたんだから。 俺ばかりだよ。俺ばっかりそれを浴びてきたんだから、 それで良いじゃないか! 汚れものは汚れものに相応しく、大人しく首(くく)って墜ちるだけだ。お前の捲る幕なんかないんだよ。 お前に出てこられてももう遅い、なんの意味も持たない、 俺の(けが)れなんか一生解る訳もない、お前に出来ることなんか、何一つもないんだよっ!」 「ごめんなさい…………、」  一筋の、何と稚なくて、身勝手な、 生温くてみじめったらしい涙が、私の片瞳から流れおちました。  それを認めた、兄は、激情は放たれて鎮まった顔のなかの、僅かな歪みを、直ぐにうちに隠し、 痩せた顎を逸らして、小さく息を吐きました。  ああ。 兄は傷ついている。  私は、また兄を傷つけている。  自分の闇を撒いて、ついに晒して、それだけでも苦しい筈であるのに、 私に撃ちつけることで、結局そのこころを、また自身へ(かさ)ねを加えるようにして、さらに抉っている。  それを感じていながら、やはり幼稚でおろかな私は、その浅ましい涙を、 拭うこともせずに滴らせたままでいました。

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