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黒い氷の『あいつ』
私の涙から顔を逸らし、きっと意識の蓋を閉ざした兄は、
「終了します」と傍らの刑務官に眼を向けるまでもなく、無機質な声で言い捨てました。
まだ面会終了の刻限には達していなかったと思います。私への態度からなのか、刑務官の方から何か諫めを受けていました。
それでも兄はそれも一切聞こえている風はなく、総ての音や熱を吸収する、アクリル板を隔てても聞こえるような決然とした挙動で椅子を引き、立ち上がりました。
「お兄ちゃん…………!」
私も腰を浮かし、目前の透明に見えて、よく目を凝らすと無数の擦れや傷で澱んでいる、平坦な板に取り縋りました。
私を見降ろす兄の半身は、もう退出口へ向かっていました。
その眼が、私に向けられたから、救いのような安堵が過ぎりました。けれど束の間で、
見たこともない黒い氷さながらの、ねめつけてもいない、ただ私を見降ろしている、
そして私の全存在を圧倒的に拒絶する、無数の針氷のような闇色の瞳で捻じ伏せて、
同じように心臓へもされたかの心地で、私は硬直しました。
「もう、来るなよ」
黒い氷の余波を、私の胸へ彫りこむように見据えて、兄は顔を背けました。
「お兄ちゃん……っ……!」
私は壁伝いに兄を追おうとしましたが、振り返る望みもなく、兄の背は峻烈に無彩の室の外へと消えました。
残されて、無彩、無音、無熱の空気の塊りが、ひどく鈍重な曇天のように私の周囲へ垂れこんできます。
対面する前、不安と怖れのなかにも、兄と会える陰ながらの歓び、そして少しでも、兄の手を取るような励ましを与えたいという僅かな希望は、
思いもよらなかった、私の知るところのない、そしてきっと、もしかしたらずっと解り得ない凍 えた烈情によって、砕かれ散り棄てられました。
兄のこころを知りたくて、私は、透明な板に掌をつけました。
のっぺりと、ひとの感触を隙さえもわかちはしない、微量に希むものも還しはしない、人工の繊維。
この壁があるから、いや、なかったとしても、
この先に在る兄のこころを、生きて身を焦がしているその熱の揺らぎを、
私は少しも、感じられなかった。自分のもののように、抱えることが出来なかった、"出来ない"のだと。
この恨めしいアクリル板を打つ拳もなく、自身の無力さと兄の遠さに巨きく穿たれながら、私の掌は目の前の壁から滑り降りてゆき、身体を抱えるようにして、私は泣きふるえました。
胸に張りついてくる机の冷たさが、沁み込む水のように伝ってきましたが、それ以上に途方もない寒さに、熱を奪われていくようだったからです。
「…………そのように。恥ずかしながら、こころの通わない兄妹でして」
その寒さを、遠い昔に越してしまったと自嘲するように、楓は薄く微笑った。
馬鹿野郎。何やってる。
妹を、そんな風に泣かせて。
俺には、兄弟がいないから、その間で絡まる情は理解 らない。知らないから憧れもした。
この兄妹にとって、そんな間の抜けた声がけを挟めないほどの、傷ましい凄絶を負っているのは、まさにいま生身のこころ を聴いているから、俺自身も抉られるように解っている筈だ。
だけど、そう投げてしまいたくなる。
たったひとりの、ただひとり遺された、
この世でふたりきり、深く繋がれた妹だろうに、と。
もう、何十年も前にとうにいなくなっている筈なのに。
楓の語る天川の佇まいは、今なおその姿を、まだどこかで息づいているのではと想うほど近く、
俺のなかに、あの頃と同じ当たり前に傍らで振り返る『あいつ』として存在しているのだと、その輪郭をまた濃く印してくる。
「……審理は続き、変わらず兄は黙秘や自身への不当とも取れる見立てを否定しないため、検察側の立証が優位に進められました。
後に判ったのですが、父は携わっていた分野ではある程度の権威だったようで、文学の観点から『こどもの育成』に多大な貢献があった、成せた筈だと認められました。
命の重さ、価値は平等な筈です……。だけれどその父と、まだ『何者』でもない罪を犯した兄とでは、擁護できる要素に、どうしても開きがあって……」
父も、こんなことになるとは思わなかったでしょうと、淋しげに笑う彼女に、
何ともやりきれず、その法廷の場なのか、『誰か』になのか、俺が"何か"を言ってやりたかった。
「どんな背景、きっかけがあるにしろ、兄が自分の意思で、ふたりの生命を完全に奪うため、執拗に刃をふるい、救けることを放棄したことについては、そこはもう、覆すことは出来ませんでした……。
被告人の立証では、私が証言台に立ちました。兄の拒否を圧 して。
本来の兄のこころばえ、私が見ていた家族の姿、そして兄は、必ず罪を認め、償えるひとだと。
私は兄を支え、私の人生に兄は必要であるから、どうか温情を与えてほしい。
そして兄には、私と一緒に、私のために、これからの人生を諦めないでほしい、と」
『被告人は、今の証言を聞いて、どう思いますか?』
『何もありません。彼女とは、血縁があるとはいえ完全に別個体の存在です。
元々も、これからもその人生に、自分が関わりを持つことも、無益な私念を挟むことも、一切ありません』
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