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波紋のおとを聞くように

 裁判長の開廷の言葉から、先生の頬が強張り、その眼が問うように食いいるように、上壇へ向けられていました。  ……中々量刑が言い渡されない。  自身に生をもたらした、慈しみ深く愛情を与えていた筈の両親を、もろとも凶刃に襲い無残な姿にいたらしめた非情な所業。  立ち止まる瞬間は、必ずあった筈。だが被告は、最期まで自身へ手を差し伸べ、訴えかけている両親の生命の灯し火を、迷いなく理不尽に掻き消している。  身勝手な、極めて『自己中心』的な己の世界へ周囲を取りこみ、意のままにならなかった、という夢想のために。  実の息子に手をかけられ、罪の烙印を押され遺すしかなかった被害者の無念は如何ばかりか。  本人も含め、それまで『何の』瑕疵(かし)もなかった家庭における、ひとの起こした凶行の、(そら)事ではないという事実は震撼、かつ恐慌であり世間に与えた影響は甚大なものである。  兄がいかに取り返しのつかない過ち、非業を犯したのか、延々と連ねられている。  それは、解っている。矢のように浴びてきて、この胸に突き刺さったままだ。  抜こうとも思っていない。一生、この胸に抉り続けていくつもりだ。…………だから。  答えを、知りたい。知るためにそこに来ている筈でした。  だけど、裁判官が兄を裁くための、『正当』で受け留めるべきその重大な事由を、私は正直上の空で聞き過ごしていて、どこか、夢のなかにいるような情況でした。  ただ、文字と音の羅列に包まれている、兄だけを見つめていました。  終わりのない、自身を打擲(ちょうちゃく)する刃に次々とその身を穿たれ続けているのに、 兄は変わらず閑かな泉の底にいるような平淡さで、(またた)きをするたびに、その控えめに伸びた睫毛が、虫の翅のようにしぱりと上下するばかりでした。 ——ひとがこの世に生まれたからには、ひとりで生きていくことは出来ない。 生きていくためには、『自分』という殻を、たとえ血を噴き出す苦しみを伴ったとしても、破らなければならない時がある。 あなたは、その自分の世界に固執し、それは同時に、ひとをもそのなかへ引き摺りこむことを意味している。 それを非とされた時、あなたは、それを微塵に突き刺して抹消することも厭わなかった。 この世に生きていく為には、それは許しがたく罪深く、 たとえ歪んだ枷が嵌められたとしても、あなたにはそれを、うち壊すちからが必ずあった筈だ。 だがあなたはそれを、 放棄した。 『…………楓ちゃん』  いつも私に寄り添ってくれる、先生の助手の女性が、私の手の甲にそっと掌を置きました。 『…………外で、待っていた方が』 『……大丈夫です』  音と言葉の羅列が耳障りななか、それを払うような思慮も何もなく、私は呟いていました。 ——ひとには、欲するというこころの(ほむら)がある。だがそれを思うままに(もと)めるのは、"ひと"として『生きる』こととは違う。 あなたは、この世を否定し、この世でのひかりを棄却した。 罪を犯しても、あなたを待ってくれる、共に歩もうというかけがえのない手の温もりを、 あなたはそれすらも、怖れてはねのけた。 愚かしい結末を望むあなたにとって、この世に繋ぎとめ、ひかりに目が眩みながら生き続けることこそが罰なのかも知れない。 けれども、己れの欲流と、誰が堕としたか最早判らない穢れのために、 そのためにそのほかのいのちと、希望と、——自身までも、 道連れにしたことは、 やはり赦されるものではありません。 それらとあなたの眼を視て、くだいて、染み渡らせて、 私は、この判決を下します。 よく、考えて下さい。不服を申し立てることは自由です。 あなたのこころの闇を掻き分けて、その先に何があるのか、 あなたの周りに在るものが何なのか、 よく視て、知って、聴いて下さい。  何かを訴えたくて、受け容れられないように歪む先生の顔。検察側の無感情な仮面。  甲の上の掌が、ぎゅうと私を覆います。  対の隣にいた叔母も、私の肩と頭を抱き寄せ、その唇から()しころされた息が洩れました。    (たれ)が汲んで、湛えた水なのでしょう。  一切の濁りのない水のような(ことば)が、法廷に注ぎこまれました。  波紋の中心にいたのは、兄。  そのおとを聞く、兄の左側がよく見えて、 昔は隠れていた白い円い耳輪が露わになって、少し上向いた花車(きゃしゃ)な顎、 ほそく伸びる白い頸筋に、かなしい烙印のような黒子が押されていて、 けれどもそれを聞く兄の横顔(かお)は、(ことわり)のため滴った水の音を聞くように、 静寂で、浄らかでさえありました。  ああ。  これが兄が希んだ言葉。  すべてを棄てて、己の在りかを手放した兄の、 そこまで求めて、行き着いたさきの結末(こたえ)は、これだったのかと。  その詞の意味を、重みを、量って悲嘆にくれることを忘れてしまうほどに、 まさに透きとおるような兄のその揺るぎのなさ、 兄を起点として伝わった波紋の振動は、そのかたちも線密につよく、わたしのこころへ溶けるように貫いて、 やがて彼方へ、遠く過ぎ去って行ったのでした。  鎮まりのうちに閉廷した法廷。  刑務官に挟まれ退廷していく兄が、目の前の柵の向こうへ差しかかった際、 ふとその瞳が、私に向けられた気がしました。

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