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頼みごと
彼女と出会ったのは今しがたのことで、既に抱えきれないほどの限りなく透明に近い型硝子のような情景の断片、彼女に宿された重み、
そして彼の後ろ姿を受けとってきた気がするが、
その彼女が、忍ばせたものとはいえ、初めて素の、本来からの微笑みを零したのを見た気がして、
思わず目を瞠ってそれを見留める。
「…………手紙が届いたんです。兄から。
兄からは、それまで一度も届けられたことは、なかったんです。
全部私からで、返事も、中々貰えなくて来ても感情を圧しころしたような素っ気ないものばかりだった。
その兄から、初めて手紙が届いたんです」
常に彼女に纏わりついていた、膜のような闇がいつの間にか薄れていて、
秘密ごとを打ち明ける少女のような得意さと、煌めきがそのはにかんだ微笑から仄見えている。
「何て、書いてあったと思いますか……?」
「…………、?」
判らなくて、でもそれは不快な不明瞭では決してなくて、
続きを促すように彼女の瞳を覗きこめば、その切れ長の目尻を薄紅に解かせていても、唇のうちにあるものはまずは厳粛に鎮めようとするかのように、白い小枝のような指で隠してから、開いた。
「国語の便覧を送って欲しいと」
「…………えっ……、」
「まだ自分の物が処分されず残っているなら。私が使わなくなった物でもいい。百人一首が載っている、本や教科書でも構わない。
出来れば、短歌や、和歌や、」
『日本の"歌"がたくさん載っているものなら、何でも』
「…………!」
『"プールにさ 入りたいんだ 本当は"でも良いんだ』
『そんなので良いんですか……!?』
控えめに、いつも自分の心根がその黒い瞳に滲むのを躊躇って、怖じてもいたように睫毛で嵩をつくっていた眼差しが、
あの時、本来のありのままの若い脈動が弾けていて、
嬉しくて、もっとその手を引きたくてこころ踊った胸の高鳴りが、今、この瞬間 へと繋がる。
楓のくれた過去 と、俺が裡 で抱きこんでいた欠片とが溶け合って、
その感応に胸打たれたのを隠せないでいる俺を、楓も重なるものがあったのか、笑みが白魚のような爪先から一層零れていた。
「何のことだろうと思いました。確かに、生家 に本は沢山ありましたが、子どもが読むようなものやその勉学の関連ばかりで、小さい時、ふたりで夢中で読んで、兄の膝の上で沢山楽しんだけれど、それきりで。
兄が、その後文学や、何かを文字にして"表現する"といったことに、興味を示すことは、一度もなかったんです。
……自分の感情を、解き放つということを、まるで知ろうとしなかった、とでもいうように……、」
「……、」
「よく判らないまま、でも兄が何かを要求するのは初めてのことだったので、兄が使う筈だった便覧や古典の教科書、私の中学の関連の書籍も加えて、半信半疑のまま、直ぐ送りました。
そうしたら、お礼とともに、返事が来て……」
『——話をするひとが出来た。
そのひとは、詩や、短歌や、"歌"や、
言葉でこころを詠むことが、好きなひとで
一緒にやろうと、俺に誘ってくれた』
『俺は、馬鹿で、無学で、こころが腐ってもう生きてないから、そういったことは、解らない。
……価値が俺にないし、やりたいとも思ってない。……だけど、』
『そのひとの顔を 見ていたら』
『少しだけ、 知ってみようかと思って……』
互いに詠み始めてから暫く経った頃に、覚えたてのような古語を、織り交ぜることがあった。
だけどらしくない、習得に適ってないと言わんばかりに、不服げに丸めてその辺の土へ棄てていた。
それを除いたって、天川の歌は、拙いながらも整えられた字数を越えてしまっていたとしても、
自分の感性や想いを、生き生きと音や言の葉に託すという、歌詠みとしての『根幹』を、
完全になぞることが出来ていた。
御託はどうだっていい。
とにかく、ひそやかに息づく彼の唇から、俺の言葉を受け取って、繋いでくれて、
その瞬間 の彼のこころを、恥じらいを表情 に染めながらも、無垢な彼の聲で、おとで、
澄んだ欠片にしてこの空気 へ溶き放ってくれることが、
とても愉しくて、 こころ弾んで俺は好きだった。
率直に詠んでいるように見えて、その陰には確かに、技法の学びを下敷きにしていなければ、出せない磨きが原石のようにいつしか煌めいていた。
短絡な俺は、
『さすがに、最近まで勉強していただけあるなあ。
憶えが良いし、若いから、感性が柔らかで伸びやかなんだな。凄いなあ』
と、手放しに感心していて、
天川は、何か含みがあるような上目遣いと曲線 できゅ、と唇を結んで、
照れを帯びたように、樹に寄りかかって黒い髪が靡く円い頭を傾がせ、そっぽを向いていた。
俺は、お前が自分のことを貶める、そんなくだらない言葉たちを、
何も一つも、浮かんだり思ったりしたことは、ないよ。
きっと、技巧とか作法とか、ひとのこころにどう訴えるかだとか、
そんな事はどうだって良かったんだ。
ありのままに。ただ、在りのままに。
お前が、諦めていた、鎖ざして喪くそうとしていたのかも知れないそのこころを、
どんな形式 でだって、開いて、ただ見せてくれるそのことだけで、
俺は嬉しかったんだ。
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