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違う意味で目を伏せて
嬉しかった。それだけで、嬉しかったんだ。
囲われて長塀に押し潰された、時間を繕う気慰みで誘ったつもりはない。だけど、
戯れじみた俺の誘いごとに、そこまで応えようとしてくれていたのかと、
今この時になって知った真実が、胸に落ちて、肺から眉間まで駆け昇ってくるような、
く、と締めつけられる熱いものは優しいけど、やはりくるしく俺を縛って、曲げた指で眉間を押さえ、小さく息を吐いた。
それを見守る楓の眼差しも、温かい潤みを湛えながら、優しかった。
「……無色で感情を削いだ兄の手紙が、そこから少しづつ、生きている感情、生身の温かさが加わっていったんです。
明かしてこなかった自分のことや、ささやかな近況、思っていることも……。練習がてらのように、詠んだ歌も、時折添えてくれるようになったんです」
「…………そうだったんですね」
「お正月でしたでしょうか。その方と初めて迎えた年明けに、苦しまぎれに詠んだお饅頭やお餅の歌が、ひどく笑われてしまって、それが随分悔しかったようで、
後で、『この中でどれがいい』と、三首ほど書いてきたことがありまして」
「え……!?」
年明けも、その陰にいつも埋ずまる誕生日も、鬱屈したコンクリートの中では何も意味をなさないと、何十年も諦めてきていた。けれど、
あの時ほど、『初』笑いと言っていいほどこころの弾けが口から迸ったことはなく、
彼の純朴さ、樹の肌のようなまっさらさを目の当たりにして、
そして改めて時節を共にことほぐひとがいるという歓び、その温かさと、寒空の下おおきく笑って耳の下が痛んだ厳寒とが溶け合う、澄み切った朝の感触が今も鮮やかに残っていて、
俺の嬉しさばかりに気をとられ、やっぱり天川は心中憮然とした表情 そのままだったんだなと、
これも何度目かの反省がまた訪れて、向かう先はそれで正しいのか、誰にともなく頭を垂れて、殊勝に呟いていた。
「…………すみません」
「あら」
明るい笑いと、愉しい憶えを繰 るように指を口許に添えていた楓は、その瞳を上げ、もっともらしい目つきで俺を認めてみせた。
「私 、その"歌のかた"がどなたなのか、ということは、
まだ申し上げていませんけど?」
先程から、徐々に気づいていたが、どうやら見た通りの控えめ一辺倒の気質ではないらしいと、
清楚な着物の内側からもそれが滲み出ているようで、俺は苦笑した。
「……漫然と、ただ死に向かっていくだけに見えた兄の道筋に、ほんのささやかですが、生きているうちでの小さな楽しみ、ひかりのようなものが灯されたのは、素直に嬉しいことでした。
会うことに竦んで長らく絶えていましたが、それも忘れて、久しぶりに、兄に会いに行こうという気持ちになったんです。
楽しみに、なんてそういえばそれまで感じたことはなかった。これも参考になりそうだと、兄が喜ぶかも知れない本を、持って行こうとあれこれ選んで考えて……」
いつも私に伏せた眼差ししか向けていなかった兄は、
早速持って来た本を差し入れ、わくわくと兄が現れるのを待ち希む私の表情 が、あからさまだったのでしょう。
入室してそれを認めると、居心地悪そうに、でも以前とは全く違うぎこちなさで、
私の真向かいにそっと腰を下ろしながら、ちらと瞳を合わせて、またそれを、前とは違う風に逸らしていました。
「あの…………。本、沢山有難う……」
久しぶりに、兄本来の控えめで素朴な息遣いを、微かに染まった頬とともに見た気がしました。
「……お友達が、出来たのね!」
「友達……。友達じゃ、ない。そもそもこんなところで、友達なんか出来る訳ないよ。……歳も結構上だし」
「歳なんて関係ないじゃない! だって、ここにいるひとは殆どお兄ちゃんより上でしょう? ……歌を詠むのが趣味だなんて、風流ね。しかもそれに誘ってくれるなんて、素敵なひとじゃない! ……どんなひとなの?」
「言っちゃいけないんだよ。所内 のことは。迷惑がかかる。…………元消防士」
「ええ……。そんな立派な職業のひとが、罪を犯して、拘置所 にいるの……?」
「うん……。でも、俺なんかとは違う。自分のために犯 ったんじゃない。
自分の生命 より大事なものを想って、許せなくてやったんだ」
「ひとの生命を救けるひとだったのに……」
「……普通の人間 なら、留まるんだろうけど。——でも、『そいつら』はきっと、"臆病者"なんだ。
……あのひとは、怖れなかった。……深いんだよ、情が。とても」
「…………誠実なひとなのね」
「……うん」
「……でも良かったじゃない。そんな風流で真面目なひとが、素敵の仲間にしてくれて」
「何でなんだろうな。……よっぽど俺の眼が、死んだ魚みたいにしてやばかったんだろうな」
「それにしたって、誰だって良い訳じゃないでしょう? いくらそのひとが面倒見が良いからって、上辺で同情したり、誰にでも良い顔して、恩売るようなひととは違うんでしょう?」
「——違う」
「即答じゃない」
苦い笑いが、だけど照れに包まれて優しいものでした。
兄の黒い髪が、判決時には短く刈られて蒼いほどだったのに、今ではすっかり、昔いつも見ていたように首を傾げれば、さらと小さく靡くようになっていて、
それを眩しい想いで見守っていたら、本当にその髪が滑って、そのなかに、俯けてひとり思案するような横顔が佇んでいました。
「…………本当に、どうしてなんだろうな」
「どうして、俺なんかのことを、気にかけてくれるんだろう…………」
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