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歌のひと
「……兄の唇から、自分や己を取り巻く罪以外の存在が語られて、
彼方の先に、誰か知らない『ひと』を見つめる兄の瞳は、とても印象的なものでした。
それから、しこりが取れたように兄の許へ通うことが、前より気軽な気持ちで出来るようになって、
もともと兄は自分のことを多く語りませんでしたが、『その方』のことになると、表情が明るく晴れて、沢山話してくれることが多かったので、
自ずと話題は、その方を介したもので占められるようになっていったんです」
「歌のひとは、元気?」
そう切り出すと、決まって兄は、直ぐには話し出さないで、はみ出しそうになってしまうこころを留めるように、
ひと呼吸置いてから、そっと結び目を解くようにして、面持ちを緩めるのでした。
「……元気だよ。あのひとは、いつでも元気だ……」
「ねえ、手紙でも書いたけど、歌を詠むことに関しては、古い形式や文法みたいなものに、こだわらなくて良いんじゃないかしら。
最近の、現代の短歌の本も送ってみたけど、見た? 私も見たけど、随分難解で、それこそ昔のものより、詠んだひとしか解らないなあって感性のものもあるのね。見たひとに語感を委ねるとでもいうのか。
お兄ちゃんも、そういうので良いんじゃない? 思ったままに、無理に『歌』らしく詠もうとしなくても」
「うん……。あのひとも、そう言ってくれるけど。そもそも強制もしてないし。
でもあのひとは、おおらかなりに、きちんとした綺麗な言葉や作法をいつも尊重して、踏襲しようとしてる……」
「それはそのひとが、お兄ちゃんの歌の『先生』だからじゃない?」
「……自分は見た通り、頭より身体で先に動く単細胞な奴だ、なんて笑うけどさ。……そうじゃないと思うけどな。
でなきゃそもそも詠むのなんか趣味にしない。学だって、見ればあるひとだって、判る弁えた話し方するし。
体育会系なのは間違いないけど、学ぶとか、こころや頭で感じたりする"こまやか"な部分も、きっと好きなんだ。
…………俺なんかが相手じゃ、張り合いがないだろうな。せめてもう少し、お前みたいに優秀な頭だったら、良かったのに……」
「そんなこと……、」
「……何でこんな拘置所 に居るんだろうって、いつも思うよ。
一度見ただけで、全方位から好かれる、好感触の塊りみたいなひとだ。
でも外側だけじゃなくて、謙虚で、驕らなくて、何でもするし、さく……、……さんて、いつも皆んなに呼ばれて、誰かのために走り回ってる」
「……完壁なのね。皆んなに慕われて」
「…………でもたまに『よし!』って言うけど」
「えっ?」
「消防士って、返事が何でも『よし』なんだよ。間髪入れずに動くため。
この間忙しくて、受刑者 の言づて伝え漏らしたみたいで、『それじゃそいつが困るだろう!』って叱られたら、反省してついでかい声で『よしっ!』って返事しちゃって、園山 先生固まらせたって。
……でもそれから皆んな、その『よし』が聞きたくて、やたら軍隊みたいな口調でそのひとに発破かけてくる、園山 先生もあれ、絶対けしかけてるよ。皆んなも大概しつこいから、『もう言わないですから!』って、珍しく怒ってたな」
兄の語る『歌のひと』は、眩しくてあたたかくて、ともすれば自分を卑下しがちでしたが、
最後には、その方の有り様がこちらにも生き生きと浮かぶように結んでいて、
そしてそれに饒舌になる兄のことも、やっぱり愉しくて、一緒になって笑いました。
「…………今日は、珍しく疲れてるみたいだ」
「歌のひと? いつも元気そうなのに」
「昨日、というか今朝か。眠れないお爺ちゃんの、話し相手になってたみたいで……」
「ええ、皆んなのお世話をしてあげるって、そんなことまでしないといけないの……?」
「いつも皆んなが寝る頃まで働いてて、やっと還房だって時、偶々通りすがったみたいで。
房 が近いから、夜更けまでうだうだやってるのが聞こえる、埒があきそうにないから、わざわざ起きて、『俺、聴きますよ』って。
園山 先生が捕まってたみたいだけど、もうそのひとも正直眠いしお爺ちゃんの相手が上手く出来なくて、そこに『うんうん、大丈夫ですよ』って聴いてあげて、……次の朝も早いのにさ。
手とか身体擦ってあげてたら、そのうち安心して寝ついたって。まだ夜が明けてなくて良かった、なんて笑ってたけど、多分寝てないんだよ。殆ど……」
「優しいのねえ……、」
「だから、眠いから詠めないって、今日は詠まなかったよ。……あのひとは」
——……その話には、もう少し詳細がある。
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