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あいつといると
年々残暑の厳しくなる一方で、だけどあの桜の樹の木陰は、その熱を深緑の沼溜まりのうちに鎮めこんで、
外の熱気を浴びたら眠気も冷めるかと思ったが、心地良く中和された温かさに微睡みを刺激されるようで、
濃緑の薄まった陰に顔を染めて、彼も思慮気味にこちらを見上げていた。
「ああ、今日、眠いな……」
「…………どうしたの」
「最近さあ、気の弱そうなお爺ちゃん入ってきただろ。小さい窃盗繰り返しちゃうとかの。……昨日、切なくて眠れないって言うから、少し相手してあげてたんだ」
「ええ、そんなこと、高階 さんがやらなくたって良いでしょ……、」
「園山先生が付いててあげてたんだけどさ。あのひと、昨日の朝も居ただろ? 日勤なのに、お爺ちゃんに捕まって上がり損ねたのかなあ。どっちも可哀相でさ。
お爺ちゃんには、あの房 きついよ。寒いし、布団は薄い煎餅みたいだしさ。ただうんうん、そうですか、辛いですねって話聴いて身体解してあげるだけで良かったんだ。
でも園山先生にはもう限界みたいで、日付も大分回ってただろうから。『あんた、歳は幾つだい』『……俺か? 俺は三十になる頃には管理職に昇進して、彼女 と結婚したいと思ってる……』とか、いよいよ言動が怪しくてさ」
あ、判りましたとりあえず上がって下さいと幾ら促しても、項垂れた頭からもう制帽は脱いで、官服を体育座りに折り曲げながらも、そういう訳にはいかないだろおおと呻くばかりで、でも園山は最後までその場に留まっていた。
寝ついたため、体温が温 まる身体を擦りながら、陽 まりの寝かしつけ以来だなあ、と窓辺に目を凝らせば、朝焼けの光はまだないがその気配に目が沁みた。
「……でも園山先生 、今朝いつも通りだったよ……」
「だろう? 新人だから気を張ってるんだ。偉いなあ」
「高階さんだって、どこかで寝 んでたら良いじゃん、こんなところに来なくったって……、」
「大丈夫だよ。俺、昔の名残でいつでもどこでも即寝れるし、ちょっとの眠りで、全力で回収 出来るんだ。立ってても寝れるし、目開いてても寝れる。——今も」
「……、」
「……」
「…………えっ……?」
「…………今、ちょっと寝た」
「嘘……!」
「——嘘だよ。 ちょっと盛った。格好つけたくて」
「…………何だよ! もう……っ」
申し訳程度に拳を振り上げてきたので、笑って避けた。
「ごめん。眠いけど、ちょいちょい仮眠摂ろうとしてるから大丈夫だよ。
だって、この休憩の時しか、天川 の貴重な歌、聞けないから。
その時間は、潰したくないよ」
「…………、」
「構えないで良いよ。歌は、本当はどっちでも良いんだ。
天川と話すの、楽しいから。
天川に逢いたいから、『ここ』に来てるんだよ」
「…………誰にでもそういう風に言うの?」
「誰にでも、て言うか、ひとによって態度変えるのは、出来ないな。俺、器用じゃないから。
——全部本当だよ。口に出して言ってる事は」
「…………やめた方が良い。奥さんだけにしなよ。
……きっと、拘置所 に来る前から、大分無自覚に罪作ってると思うよ……」
「ええ、これ以上前科持ちになるのは困るなあ。……あっ、天川! 右肩後方、桜の樹に夏の名残りあり! 潰さないように、気をつけて」
「えっ、何、何……!?」
「天川から見て右だよ。…………蝉の抜け殻」
樹の窪みにひっそりと蹲るようなそれを認めて、脱力したように息を吐 く。
「…………ああ、何だ」
「はい。今日俺眠くて詠歌力ないから、蝉の抜け殻で一首、天川が、どうぞ」
「何だよどうぞって……っ、ええ、ええ……?
…………昼食の、餃子からから、うまれたの、…………?」
「えっ、何、どういう事……!?」
「だから……、昼食 餃子だっただろ、パリパリしてるのが、餃子の皮に似てると思って……! 殻と皮……」
つい最近まで蝉の鳴き声に掻き消されていたのが、俺の笑い声にとって変わる。
桜の樹の緑陰が重なっていても、天川の目尻や頬に暖色が散らばっているのが見えた。
凄く良く出来てると思うよ、という俺のこころからの感心は、どうもいつも上手く伝わっていなかった。
「もう、行く……!」
「あ、そう。解った。早いな。お疲れ」
唇を尖らせて行こうとする天川が振り返り、いつも控えめな感情表現に徹しているその顔の、顰められた眉と切れ長の眼許が、その時は鮮やかに迫った。
「——そこは、引き留めろよ」
小さく駆ける彼を笑って見送って、残暑と、緑陰と、餃子の皮の抜け殻と。
俺の眠気は、いつの間にか心地良く霧散していた。
天川 といるの、楽しいな。
歌は、あっても 無くても。
この世界。
塀に囲われて、圧 されて湿った箱みたいな牢獄 で。だけど、
あいつと一緒に、くるくる季節 を廻っていくの、 楽しいな。
そこに、気がつき始めた胸のくすぐりが、秋に向かい、濃く深く繁っていた濃緑の葉の群れから、
幾年を経て、この何度目かの桜花の繚乱に、溶けて重なりゆくようだった。
「…………でも」
はらはらと翻り時折視界に入る白桃の花弁が、楓 の声とともに、俺を今このときへとひき戻す。
「一緒にいて、ただ楽しく明るくいられる、
単なる"お友達"では、なかったようで…………」
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