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あのひとといると、なのに
生命の煌めきが躍動するような夏を、連動するように歌のかたと楽しんでいた兄は、
やがてその熱が収束していく季節にも似て、歌のかたを語る表情のなかに、見紛いではない、物憂げな翳りを浮かべるようになっていました。
「……」
「……どうしたの?」
「…………たまに、どこか違うところ、遠いところを、見ている気がする……。…………隣に俺がいても」
「……、」
「きっと、外だ。ここじゃない、外にいる、
大切なひと達を想って、そのひと達を乞うた目をして、遠くを希んでいる」
当たり前だよな、と漏らした言葉と吐息が、兄の唇から卓へ、すん、と零れて小さく弾かれるのが、見えた気がしました。
「出たいんだろうなあ。 可哀想に…………」
「そろそろ、俺の本性 ばれたかも知れない。
へ泥みたいに沈殿して、剥がれることのない、薄汚くて決して浄化する事なんかない 俺の饐 えた罪 ——」
けれど、その方とすべてを打ち明けあって。
私達にも秘し隠していた、互いの黒い、濯ぎきれない汚濁の罪 を顕わに零して、わかち合ったと。
解き放って、その方との距離 はよりふれるように狭まりを見せた。だけど、
近づけば近づくほど。その方に密を、知れば知るほど、
楽しさ、嬉しさは確実にその身に浸るのに、時としてそれを超えるような苦しさ、もどかしさ、
胸をちりちりと燻す焦がれを感じるようになったのだと、その憂 いた眼差しが翳を差して訴えてくるのです。
「結婚するのって、どんなのだろう」
それを聞いた時、自分の身に当て嵌めたのではなく、
『誰か』の身上を知りたくて、出た言葉なのだと瞬時に悟って、胸を穿たれたように兄を見ました。
「自分のこどもが産まれるのって、どんななんだろうな。…………想像もつかないな」
「……、」
「…………つかないけど、もし、お前が"同じ目"に遭ったなら、
きっと、俺も同じようにそいつのことを犯 りに行く」
それで、もしあのひとが轢いた加害者 が、地獄 でのうのうとした顔してたら、
俺がそいつを、もう一度刺してやるよ。
見開いた目を歪める妹の表情 に気付いたのか、兄は『兄』の顔を戻して、小さく笑いました。
「……勘違いするなよ。今更自分の身を悲観して、なくなった未来 を悔いてる訳じゃないよ。
……生きていたって、当たり前の道を辿って、皆んなが容易く持ってるように見える幸せを掴めるとは限らない。……どうも俺は、ずっと前からそれを手にしている自分を、想像出来ないし」
「…………お兄ちゃん」
「お前から、家族を、ささやかで温かな土台を、奪った。
それは、どうしたって償わなければならない、救いようのない 罪だ。
そのけりは、つけるよ。…………必ず」
幸せは、それを受け取る、権利が有る者が受け容れれば良い。
お前が、さ……と私の瞳を見て微笑う兄に、今まで見ぬふりをしてきたものを引き戻されたようで、
その淡く優しい眼差しを振り払いたくて、でもなし得ずその瞳を逸らせぬままにいました。
「未来 に進んで歩むことも出来ない。……その気持ちを掌 に浮かべて添うことも出来ない。
…………俺は、卑小だ」
「……でも、聞いてる限り、『そのひと』だってお兄ちゃんといるの、楽しいし、
こんなところにいたって、いつも明るい顔見せてるそのひとが、お兄ちゃんが一緒にいるから、救われてる面、あるように見えるよ……!」
「…………楽しいよ。とても。……あのひとといると、俺も生きてて構わないのかな、ていうことを、押しつけじゃなく、陽のひかりに撫でられてるように、あたりまえに想い出してくる。
何気ない、ほんの些細で取るにたらないと見過ごしてきたものを、
こんなに楽しいのか、こんなに嬉しいことなのか、
自分の感情 を、あらわしたり素直に伝えたりすることが、こんなに誰かを喜ばせることが出来るのかと、
こんな俺なのに、びっくりして、その知ったことの熱 さとまばゆさに、茫然として動けなくなりそうになる」
「…………!」
「だけど……」
「……」
「つらい…………」
「俺とあのひととは、いき着く先が違う」
翳を帯びながらも、その言葉と眼の強固さは、揺るぎのないものでした。
「あのひとは、こんなところで朽ちていくひとじゃない。
いつか必ず、ここから出て、待っている大事なひと達の許へ、 『外』へ、帰っていくひとだ」
「…………っ」
「俺は、違う……」
「お兄ちゃ……」
「あのひとを、俺の傍 に縛りつけちゃいけない。
朔さん を、連れてく訳にはいかない」
はあ……、と黒い溜め息を吐きながら、「そう解ってる筈なのになあ……」と苦々しく呟く兄は、何故か嗤っていました。
「…………けど、思うんだよ。このまま、このままずっと、ここにいて、あのひとの隣で、あのひとを喜ばせることばかりして、
そのために存在し続けていたなら、そうしたら……、」
「…………っ」
「—— 奪 れそうだって、思うんだよ…………っ」
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