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どうでもいい存在なんて

 ああ、と絶望の塊りのかたちを成したものが、兄の意識ごと唇から吐きつけられ、背後へも周り、兄のその身体ごと覆い尽くすようでした。 「本当に……、厭になる……。俺は、どこまで……。 どこまでこんなに、あさましいのか…………。 ……あんなに、あんなに何よりも、家族のことを、大事に想っているひとなのに…………」  知らなければ、良かった。  こんなくるしく、あさましい想いに身を沈めるのなら。  いっそ知らなければ、良かったと。  あれほど『歌のひと』と邂逅(であ)えて、生きる喜びにはにかんでその身を包まれていたのに、 同じ唇で、今はそれを知った絶望に苛まれ、己れの昏い欲望に嘆いて、のろいの言葉を吐いている。  解っているのかどうか、その様を目の前の妹にさえ晒してしまっている兄は、やがて先程覗かせた嗤いを、低く漲らせました。 「…………けれど、俺なんて、所詮無意味な存在なんだ。 あのひとの隣で、幾らいじらしく笑っていようが、その裏であさましい想いを抱えていようが、———下手な歌を詠もうが。 あのひとの人生において、俺なんか、この黴びてしみったれた監獄のなかでの、ほんのつまらない、繋ぎにしか過ぎない。 あのひとの大事で愛しいものたちの尊さに較べたら、幾ら束になっても、敵わないし、 俺がこそこそ意地汚く鼠みたいにのたうち回ろうがどうしようが、あのひとにとっては、所詮大した『傷』にもならず、 瞬く間に風化していく、つまらない塵でしかないんだから、もう、どうとでも構わないんだ……!」 「…………、」 「だって俺は、 存在なんだから…………っ」 「どうだっていい存在って、何よ!」  覚えず声を張り上げていたことは、意識しておらず、 俯いて恨み言ばかり繰り返す兄が、やっと私のことを見てくれた、という感触だけ覚えていました。 「どうだっていいって、何? そもそも、そのひとの奥さんとか家族って、そんなに大したもの? たまたま、、一緒の年月を過ごして、そういう過程を経て、たまたま、その立場に立っているだけで、それを取っ払えば、 そのひとたちだって、『どうだっていい』存在じゃない! ……それを言ったら、私だってどうだっていい存在よ! たまたまお兄ちゃんの妹に生まれた……、わたしだって、どうでもいい存在なのよ!」  何とも滅裂で、意味も道理も通さない、稚拙な戯れ言です。  兄ばかりでなく、傍らの刑務官の方も、表情を置き去りにして私を見上げていました。  どうやら、いつの間にか立っていたようです。でも、それもどうでもいいことでした。 「……何よどうでもいい存在って。お兄ちゃんが、いま、その時に、にいる時に、 当たり前の幸せから隔離されて苦しい境遇にいる時、一緒に、そのひとの前に立っているのって、……お兄ちゃんでしょ? お兄ちゃんがそのひとの隣で笑って、怒って……、頑張って歌を詠んで恥ずかしがってるのも、全部本当のことじゃない。 陽炎みたいに嘘とか幻じゃない。全部、真実(ほんとう)のことじゃない、」 「…………楓」 「そのひとのことを想って、言えないような厭なこころに捕らわれちゃうことだって、全部、本当よ。 全部、生きている、生身のお兄ちゃんが零して、私たちにくれてる証よ。 そんなこと、全部、どうでもいいことなんかじゃない、…………それを……っ」  こんなに、時には焦げるようにして、ひたむきに息づいている。  なのに、いつか、もしかしたら やがて、 儚く消えていって仕舞う、生命(いのち)なのかも知れないのに——。 「どうでもいい存在なんか、ない!」  帰る、とも告げずに、所持品を掴んで翻していました。  けど、兄の言葉を聞きたくて、紅潮した身体を宥めてそっと耳を澄ましていた。  願いを聞きいれてくれたように、「…………解ったよ」という兄の静かな声が追ってきました。  有難う。  アクリル板の向こうから、その優しい答えが確かに響いていて。  私は、その言葉を受けとりたいけど、逆のような激流に駆られ、だけど胸へ抱きしめるようにして、走って面会室を退()ました。

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