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この星をあなたに

   十二月の底に向かおうとして、まだ夕刻なのに、もう陽が落ちつつあって、空は掠めゆく平たい橙を乗せた、鈍く蒼い寒天の闇が迫っていた。  もう、星がちらついてる。天体のことは、詳しく解らない。  だけど毎年、やはり同じ位置に、琴の糸で丁寧にひいたように、(ひかり)が、ひとつの画を描くようにして縫いつけられ、瞬いている気がする。  昔、色々な本を沢山読んだ。無学だなんて繰り返すけど、そんなことない。  お兄ちゃんは、あの星を知っているだろうか。  寒さが身体じゅうの隙間から忍びこんで、なかの紅くて熱い部分も、蒼色に染め尽くしてしまいそうだった。  寒い。でも星は綺麗。コートを着こんでマフラーも耳の下まで埋めこんでいる筈なのに、でも、やっぱり寒い。  冬の夜の底冷えと、それを見降ろす天空の星の(きよ)らかさが、胸に迫って別の感情を引き摺りだそうとしてくる。  お兄ちゃんは、この夜の空を、飽くるまで、当たり前に、満足に見上げて寒さに震えることすら出来ない。  冬の夜空は、刺すようにこんなに空気が張り詰めているけど、その分、浄化されたように(そら)は紺碧の銀河みたいね。  地上は、それも綺麗だけど人工的なイルミネーションが多色に煌めいていて、猥雑な賑やかさに満ちているけど、 それでも上空には、きっと太古の昔からその清廉さをうしなわない、星がほら、まだこんなに浮かんで、今日は良くとても綺麗に見えるね。  こんな風に、隣で話しかけられたらいいのに。いつも。  それ以前に、もう、何年も前から、この寒さもひかりも、空気さえもあのひとはふれる事が叶わないのに。  違う。星じゃない。寒さじゃない。私との、子供じみた会話なんかじゃない。  天空で、あんなに小さいのに、その差すひかりが、迷いなく澱みのない閃きで、私の瞳から胸へ突き抜けていくようで、 自分の微細さを、あかるみに晒された気がして、際まで凍るような寒さのなか、追い詰められたみたいに瞼の淵に熱が凝縮して、熱い体液を集めようと、毛細の血管がひしゃげるように脈打ってくる。  ああ。私の方こそ、この地上に這い(つくば)る、有象無象の塵みたいに、卑小な存在だ。  私は、本当に無力だ。  鉄の籠に縛られている、お兄ちゃん(あのひと)の、 本当に欲しいものを、少しもあたえてあげる事が出来ない。  あげられないから、せめて、この頭上にある星をひと欠片でも掬ってきて、 手のひらに閉じこめて、目の前で開いて見せてあげたら、 お兄ちゃんは、 笑ってくれるだろうか。  そしてお兄ちゃんが想っている、『そのひと』に、お兄ちゃんのこころのなか。  ひかりを失って、鎖ざしても、その身がいつ潰えるかわからないのに、やっぱり優しくて、有難うと私に言える あたたかさ。  昏くて澱んだ靄も、確かにある。だけど、その周りでやっぱり恥ずかしそうに俯いている、 この星みたいに、綺麗で、優しくて、控えめだけど、 真っ直ぐただひとりに向けられた生まれたてのように美しい眼差し(想い)を、 そのひとに、見せてあげられたならいいのに。  進めなくなって、路添いの塀の、人目につかない窪みに身を潜めた。  寒い。ブロック塀の冷淡な固さが直に伝わってくる。宵の(とばり)の気配が、みるみる満ちてくるようだ。早く帰らないと、お祖母ちゃんたちが心配する。  だけど、何でもない顔をして、明るい外の世界に身を照らされて滑らすことなんて出来ない。  お兄ちゃんに何も届けられないまま。お兄ちゃんに、何もしあわせなものを見せてあげられないままで。  どうしよう。どうして。  寒さと哀しみを、鎮めるためには、この生温かくて生に縋りつくみたいに卑しい涙を、出し尽くしてしまえばいいのかと、 放出するたびに熱さと寒風がせめぎ合って、この身に()ちつけてくるようだと、ずるずるとざらついた塀へ押しつけられるようにしゃがみこんでいった。 そうしたら、 「あなた、どうしたの。…………拘置所(ここ)に通っている()でしょう」  街灯の逆光でも、その輪郭を、そのひとが持つ柔らかさ温かさみたいに、髪にまで、 まるで天辺の月みたいなひかりに包まれている、顔と瞳が、頭上からふうわりと照らし出されていた。 「こちらへいらっしゃい。……こんなところで。凍えてしまうわ」  溶けこむように柔らかなのに、凛としたしなやかさが残る、優しい声だった。  屈みこんで、背を指でさり気なく撫でて支えてくれる。  口許を覆っていた手のひらを、そのひとのそれでそっと重ねてくれた。  そのひとが纏う空気を、冬の夜気が連れてきて息吹を吹き返すようだった。   胸がひと際切なくなるような、大人の、とても佳い香りに五感がふるとふるえた。  茫然と涙を滴らせて見入る私に、頷くように下瞼と唇を緩めてほころぶ。  もし、大人になって、こんな女性にいき()くことが出来たら、どんなにかしあわせだろうと、 憧憬するそのままな姿なほど、 うつくしい女性(ひと)だった。  そして、もしこの塀のなかに閉じこめられている身だとしたら、この(ひと)がいるなら、何としても檻から出て、逢いに戻りたいと渇望するだろうと。  外への希望、ひかり、未来。すべての罪をも解って、抱きしめ抱き返してくれる、 どんなに苦しい世界でも、このひととなら、手に手を取って導きを知ることが出来る、生きる歓びに、溢れる約束をくれるだろうと、 一目で、それを()ってしまうような、煌めきを見るような存在だった。 「大丈夫よ。私も、同じなの」   面会口を振り向いて、安心と親しみをくれるようにして微笑む。  引き起こして繋いだままでいてくれた、左手は冷気に包まれていたけど、すぐにひたむきな温かみに充ちて、 薬指に、嵌められた指輪の感触が掠めた。

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