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眉月へミルクティー
寒風が止んだ場所に身体を落ち着けることが出来て、目ばかりに濃縮していた血の巡りが、全身にも徐々に、ゆき渡っていくようだ。
そのひとが手を引いて連れてきてくれたのは、前面の入り口のみが開放された、バスの待合室だった。
外に面してはいるが、折りからの風が遮断され、人気のない、仄温かい照明と天井の空調から発する暖気にひっそりと包まれた室内は、
揺り動かされたこころを鎮めるのに、あらかじめ用意されていたかのような場所だった。
「ごめんなさいね。この辺って寄り道したいようなお洒落なカフェとか、ないじゃない?」
添うような温かさに変わりはないが、本来の女性らしい茶目っ気が、その笑顔に滲む。
座ることを促すまではいかない優しい眼差しが向けられて、だけど微笑んでそのひとが座ったから、おずおずとのようだけど、まだ拭い損ねていた涙を思い出して払って、そのひとの斜め向かいへそっと腰を降ろした。
「ねえ、そのマホガニーカラー、白桜女学館じゃない? 素敵だわあ。優秀なのね、凄いわ」
緊張を和らげるような軽やか口ぶりのその顔を、逆光ではない照明があらためての艶のように縁どる。
貌 があらわになって、暗がりでも判っていた目鼻立ちはやはりくっきりと鮮やかで、
華やかで、だけど甘いのに徹った芯を残すような、清爽とした品を隠さなかった。
繭のように健康的な白い肌を、額から顎下まで流れる髪が顔の小ささを際立たせ、
アイボリーのロングコートのなかに柔らかなグレイのアンゴラニット、ヴィンテージブルーのデニムを纏ったしなやかな脚を、低めだけどきちんとヒールのあるショートブーツを履いて伸ばし、
挿し彩 にインペリアルレッドのストール、引き締めるようにシルバーの変形したフープピアスを耳へしのばせている。
どれもシンプルなのにひとつひとつ上質を漂わせ、何より、この女 が洗練を感じさせてやまないのは、素 にある美しさ、それを甘んじて受け容れた証の残らない、素地のような心映え、
それらを重ねて磨かれた大人の余裕が在るからだと、
当たり前のような眩しさを目の当たりにして、私のこころは俯くように落ち着かなくなる。
元から、儚げだけど惹かれる、品があって芯のつよそうだと評されることはあるけど、華やかや快活とは真逆の顔立ちだ。——兄も同様に。
同じ月だとしても、すべてのものを照らす明るい満月と、それに怖じて空の隅で遠く俯いている、白い眉月のような心境だ。しかも、朧ろの。
「いえ……」と冴えない返事を零して、飾り気ない襟足の短い髪を隠すように撫でつけ、
同じ室内で同じ光を浴びているのに、この身がひどく稚 く野暮ったく思 えて、
いつもは誇りを感じている、褒めてくれたその制服のスカートの裾を、身を捩るように密かに引っ張って掴んでいた。
「はい」
声をかけられて、振り向いたら手元に何か差し出されていた。
視線を落とすと、飲み物の缶だった。手の真上に既にあり、反射のように受けとってしまうと、痺れるような熱さが掌に沈みこんでくる。
パッケージを見るだけで濃厚で芳醇な甘さが想起できてしまう、ホットミルクティーだった。
「さっき、拘置所 で買ったの。私、猫舌だからまだ飲めなくて。
持っててくれる? それだけでも温かいでしょう」
「……」
「飲みたかったら、飲んでもいいのよ」
「いえ、頂けないです……、」
それでも預かって掌におさめたままでいる私に微笑んで、そのひとは前を向いた。
「……そういうものを、昔は買えなかったの。特に、収監された 初めの頃はね……。
あのひとたちは、こういったものを自由に飲んだり食べたり出来ないでしょう? 差入れも全部はしてあげられないし。
会って、どんなに勇気づけて心が通っても、別れたらあのひとは冷たくて狭い房 、私は、明るい雑多な世界に戻って、もう忘れたように好きなものを食べたり、エアコンを効かせた部屋で温かな布団に包まって、眠ることが出来る……。
とても、もうファーストフードなんて食べる気になれないって、零したことがあるの。そうしたら、
——『そういうことは、やめて欲しい』って、即座に言われたの」
「……」
「滅多にひとの言うことや、やろうとすることを遮らないひとなんだけど。その時は、真顔になって叱られちゃったわ」
「……、」
「どうしても、身を案じて、同じ苦境をわかち合うじゃないけど、この隔てた壁を越えて、身もこころもひとつであろうと願うほど、思い詰めてしまうことって、あるでしょ。近しい関係であればあるほど。全然そんな貞淑なタイプじゃないのよ。
……だけど、あっちのひとたちにとって、案外そういう『身を挺す』みたいな真似って、嬉しくないみたいね。
だから、出来る手援けや想うことはするけど、私は私のいる世界で、好きなようにして好きなように生きようって、決めたの」
前を向いていた綺麗なまつ毛が、瞬いてこちらを向き、ほころんだ。
「だから、あなたもあなたの好きなように、したら良いんじゃないかしら」
「……、」
「それを言ったら、『それでいい』って、 安心したように笑ってくれたの」
誰が、という問いを浮かべたままの表情で見つめていたのかも知れない。
厭味のない慈しみと信頼をこめた、芳 しい花のような笑顔で応えてくれた。
「主人が」
主人、という言葉と。掌のなかのミルクティーの、まだしらない筈の甘さの、何故かじんとした痺れが残った。
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