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やわい同義と楔
あら。まだ五時なのに、もう真っ暗ね。お家の方が心配されてるんじゃない? 一緒に駅まで行きましょうか。
『送ろうか』ではない、あくまでもこちらの隣に寄り添うことをたやさない、それでいてごく自然な声かけ。
少しづつ温 まっていく缶と連動するように、揺れ動いていたこころや涙が鎮静していくのは、自覚していた。
だけど、もう少し。
もう少し、このひとと話がしたかった。してみたかった。何故か。
もしかしたら。
もしかしたら、それは、——このひとは、私の『なにか』を傷つけるのかも知れない。
その遠い予感を、本当は、密かに感じとっていたのかも知れないけれど。
何か遭ったのかは明白で、だけどそれも自分のことも切り出さないままの私へ、穿った表情は見せずに、ただ見まもりの眼差しをそのひとは向けていた。
そして彼女も、この場所からまだ立ち上がろうとはしなかった。
「じゃあ、もう少し、私の話を聴いてくれる?」
同じ立場のひととか、家族とか、援けてくれるひとは沢山いるけど、"自分だけ"の心境を、そういえばありのまま誰かに見せたり話したりすることって、ないの。
苦手、というかあまりしたくない、何故か出来なくて。
本音のように漏らされた呟きは、だけど彼女の持つすこやかな明るさを損なわなかった。
「……主人 が、『事件』を起こした時、……そうね。とても、重い罪を犯したわ。間違いなく。
どうしても、言葉や気持ちで補えるどころではない、莫大で現実的な損失以上を以って、償わなければならないほどの。
…………だけど、それを聞いた時、……ありふれた言い方とは不謹慎かも知れないけど、 夢を見ているような心地で……」
「……」
「私の場合、だけど。——これは、私のことなんじゃないかと思って」
真相を知る由もない。だけどこころを捉えられた気がして、私は彼女を見た。
「……事故から、ずっと昏い靄を彷徨い続けてる感覚だったんだけど……。……ごめんなさいね。この付近をなぞると、あまり『普通』でいられる自信がないんだけど。自分で言っておいて。
……それを聞いた瞬間、きっと、『善い』余韻をもたらす要素なんて、微塵もなかった。だけど、はっきりと靄が晴れて、
ああ、これは"私が"したことなのだろうか。
私が蹲っている間に、彼が、ハンドルに手を掛けた。
だけどその手は、私の手でもある。その掴んだグリップの感触を、私はきっと 知っている…………」
「……、」
「……意味が解らないわよね。こんなことを言うと、これから闘っていくことが出来ないから、……秘密よ。
勿論、どうにも庇いだてや、赦されることを求めてしまってはいけない、罪なの。
……彼は、自分だけで、『自分の』意思のみでやったことだと、何度も言ってる。
それはそう。彼は優しいけど、彼だけの直向 きな信念を決して曲げたりしない。誰かに負わせたり、無配慮にそれを重ね合わせようとすることなんか、決してしない。
だけど、——あの時から、彼の犯した罪は、私に科せられた罪でもある。
彼のこころは、間違いなく彼のものよ。だけれど、彼が身を墜としている、憎しみや怒り、ひとに明かせない、黒く押しこめたおそろしい感情 、それらを解放できない苦しみや哀しみ、捩れるようなやるせなさは、そのまま、私も感じとることが出来るし、私が感じる筈だったものなの。
それはつまり……、」
「彼が、生きているということ。彼のいのちはそのまま、 私のそれと、同義…………」
ひどく、烈しく誰のこころへも楔を打つような言葉を紡いでいるのに、
その声音や、振り返って私に見せた微笑みは、その烈しさを既に内奥してしまっているかのような、優しく、穏やかな柔 さでさえあった。
「……ごめんなさい。初めて会ったばかりなのに、随分怖い、突拍子もないことを言っているわね。
しかも、さっき言ったことと矛盾してる? 自分の好きなように生きるっていう件 り。……実際のところ、どちらも本当なの。私にとっては。
何が言いたかったのかしら。とにかく、あなたも、今のあなたのままで、充分なんじゃないかしら、ていうことを思ったの」
「……今の、私の……?」
「そうよ。自分のことを、一番に考えなければいけない大事な時期でしょう。それを、学校が終わった後に、わざわざこんなところへ足を運んでくれるだなんて、ご家族かしら。……大事なひとなんでしょうね。
残念ながら、こういった場所に入ったひとを親身に見舞い続けることの方が、圧倒的に難しいと思うのよ。肉親であっても。だからこそかも知れない。
あなたのように、塀の外で在っても、直に顔を見て、言葉を交わしてくれる存在がいるだけで、あなたのその大事なひとも、どれだけ救いになっているか判 れないわ。——たとえ、生身の感情をぶつけて、あなたも、そのひとも、傷つけ合ってしまったとしても」
「…………」
「言いながら、何だか私まで自分が励まされた気がするわ。……今の状況、思いを巡らせれば底まで墜ちてしまいそうなほど、不安で厳しいのは間違いないんだけど。……大丈夫。支えてくれるひとたちもいるし、闘える余地も始めからある。私たちの持ちものなんて、本当に『この身』ひとつしかないのよ。
……彼は、どこまでも自分に正直なひとだから。けど、外 を向いて、進む気になってくれたみたいだし」
「……」
「ここで終わるようなひとじゃないの。——私が、そうはさせないわ」
つよい瞳が閃いて、だけどすぐに見せた微笑みは、どこまでも水面 のように寧 らかだった。
「別のかたちの倖せを、見つけてくれて構わないって、何度も言われるんだけど…………、」
「今さら、朔 君以外のひとに、惹かれるだなんてとても思えないのよねえ、」
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