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言っちゃえばいいのに

 生きてさえいれば。本当に、それでいいのだろうか。  生きてさえいること。兄の生命(いのち)は、それすらも(はかり)の上に掛けられて、傾いでいつかの朝に、砕けてちって仕舞うか知れないものなのに。  それでも、大丈夫。大丈夫よ。  彼女の息吹きの(みなもと)みたいに、柔らかで芳しい薫りと、私を(いだ)く確かな腕と指の温かさは、私のひしゃげたこころの沼地へ、潤うように注ぎ込まれていた。 「ああ、駄目ね。あなたももうひとを想う、立派なおとなのに。 かわいそうって言葉は、可愛いから来る語源なんてこと、思い出してしまうわね」  支えるように私を包んでいた手のひらは、いつの間にか控えめにそっと、()にするように私の頭を撫でていた。 「()まりも、大きくなったら、こんな風だったのかしらね」  見上げた私に、彼女のあくまでも包み込む微笑みはそのままで、そのひと自体の脆さは、ついに見られることはなかった。  ミルクティーはすっかり冷め、今度は甘さで彼女の舌を痺れさせ、ない交ぜにしてくれたら良いと願って、そのままそのひとに返した。  光が溢れ、ひとをそれぞれの帰路へと分断する駅の前で、差し出された掌を握って、最後まで笑顔を欠けさせなかったそのひととは、別れた。  それきり。その女性(ひと)と行き交うことは、それきりだった。  確たる証は持たない。どこの誰で在ったのかと。  互いに、ついに名も明かさぬままだったのだから。  それでも、あの夜冬空の底で突きおとされていた私を、茶葉のように濃く抽出された、 優しさ、温かさ、(かぐわ)しさと、ひとひとりを愛し続ける浄らかさとつよさで浸して、 やはり私も、罪悪に傷みながらも、残ったのは私の大事なひとを想うことへの揺るぎなさで、それを分かち合ってくれたのは、あのひとだった。  私の揺れ動く感情をただありのままに受け容れて、沈痛に耳を傾け続けてくれているこの男性(ひと)には、 それは、やはり明かさないでいて、今なおその浸らせた部分を想い起こさせる、私だけのまだ鼻腔にも残る馨しさとして、ひめておくままにした。 「…………それでも、兄はその方を拒むことは、やはり出来ませんでした。 視線を向ければ、そのひとが()る。振り返れば、通じていたように瞳が合わさって、変わらぬ陽のようにまっさらな微笑みをくれて、 閉塞された世界で、『いま』を生きる生身(なまみ)の自分を、飾らず引き出して、何の濁りもなく同じ季節(とき)を手を取るように過ごしてくれるそのひとと、 残された限りある時間を、共にそっと傍に立つことを、(えら)んだようでした」  年が明けて、それまでにない晴れやかな貌色でしたが、兄の頬は可笑しく膨れっ面でした。 「……そこまで笑うかっていう」  正月早々。馬鹿にしてるんじゃないっていうのは解ってる。でもそれにしたって。  本当は、年が明けていの一番にそのひとの初笑いが見られて、嬉しかった癖に。  それにしても渋々明かした兄の『初』歌も、それは笑いを誘うだろうと、あまり(つつ)くとさらに膨れるから、唇の緩みを控えめにしつつも、口に出さずはいられませんでした。 「……でも、やっぱり可笑しい。紅白饅頭は、ふたつあるから紅白饅頭なのに。ひとつで良いって。 ご飯、そういう季節の料理もちゃんと出して貰えるのね」 「充分過ぎるよ。ひと様の真っ当に納めた金がこんなところに流れて、申し訳が立たない。……そうでなくてももうひとりの御世話係が、『ちょっと(とおる)う、あんたの分、こっそり肉とか多めに盛ってやってるんだから、しっかり食べなさいよ。 もやしみたいなのが少しはふっくらした方が、(さく)も喜ぶんじゃなあい?』って、頼んでもないのに、余計によそって……」 「…………うん。そのサクさんも、喜ぶんじゃない?」 「えっ……!? 何で名前知ってるんだ……、」 「……今言ってたでしょ。……と言うか、話し初めの段階から、何回かとっくに漏れてるよ……」 「ええ……っ、……違う、朔じゃない、ああもう朔だけども、違うんだよ、忘れてくれ……」 「良かったじゃない。そのお姐さんみたいなひとも、協力してくれて」 「してないよ別に。女より(たち)悪いんだから。それどころか隙あらば『ああ、握り甲斐のある上腕二頭筋ねええ』とか腕とかべたべた触って、 さ……、……もそういうの昔から慣れてるから気にしないって、流してるから却って増長して気安く触って……っ」  成年を超えた男子(おとな)が、本人が居ないところでぶちぶちぼやいているものだから。  これは女子高生(わたし)でも、発破を掛けられる次元だと認識して、呆れてついに言ってやったのです。 「もう、言っちゃえばいいのに、」

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