69 / 96
言っちゃえばいいのに
生きてさえいれば。本当に、それでいいのだろうか。
生きてさえいること。兄の生命 は、それすらも秤 の上に掛けられて、傾いでいつかの朝に、砕けてちって仕舞うか知れないものなのに。
それでも、大丈夫。大丈夫よ。
彼女の息吹きの源 みたいに、柔らかで芳しい薫りと、私を抱 く確かな腕と指の温かさは、私のひしゃげたこころの沼地へ、潤うように注ぎこまれていた。
「ああ、駄目ね。あなたももうひとを想う、立派なおとなのに。
かわいそうって言葉は、可愛いから来る語源なんてこと、思い出してしまうわね」
支えるように私を包んでいた手のひらは、いつの間にか控えめにそっと、児 にするように私の頭を撫でていた。
「陽 まりも、大きくなったら、こんな風だったのかしらね」
見上げた私に、彼女のあくまでも包みこむ微笑みはそのままで、そのひと自体の脆さは、ついに見られることはなかった。
ミルクティーはすっかり冷め、今度は甘さで彼女の舌を痺れさせ、ない交ぜにしてくれたら良いと願って、そのままそのひとに返した。
光が溢れ、ひとをそれぞれの帰路へと分断する駅の前で、差し出された掌を握って、最後まで笑顔を欠けさせなかったそのひととは、別れた。
それきり。その女性 と行き交うことは、それきりだった。
確たる証は持たない。どこの誰であったのかと。
互いに、ついに名も明かさぬままだったのだから。
それでも、あの夜の冬空の底で突きおとされていた私を、茶葉のように深く抽出された、
優しさ、温かさ、馨 しさと、ひとひとりを愛し続ける浄らかさとつよさで浸して、
やはり私も、罪悪に傷みながらも、残ったのは私の大事なひとを想うことへの揺るぎなさで、それを分かち合ってくれたのは、誰でもなくあのひとだった。
いま、私の揺れ動く感情をただありのままに受け容れて、沈痛に耳を傾け続けてくれているこの男性 には、
それは、やはり明かさないでいて、なおその浸らせた記憶を想い起こさせる、私だけのまだ鼻腔にも残る馨しさとして、ひめておくままにした。
「…………それでも、兄はその方を拒むことは、やはり出来ませんでした。
視線を向ければ、そのひとが在 る。振り返れば、通じていたように瞳が合わさって、変わらぬ陽のようにまっさらな微笑みをくれて。
閉塞された世界で、『いま』を生きる生身 の自分を、飾らず引き出して、何の濁りもなく同じ季節 を手を取るように過ごしてくれるそのひとと、
残された限りある時間を、共にそっと傍に立つことを、択 んだようでした」
年が明けて、それまでにない晴れやかな貌色でしたが、兄の頬は可笑しく膨れっ面でした。
「……そこまで笑うかっていう」
正月早々。馬鹿にしてるんじゃないっていうのは解ってる。でも、それにしたって。
本当は、年が明けていの一番にそのひとの初笑いが見られて、嬉しかった癖に。
それにしても渋々明かした兄の『初』歌も、それは笑いを誘うだろうと、あまり突 くとさらに膨れるから、唇の緩みを控えめにしつつも、口に出さずにはいられませんでした。
「……でも、やっぱり可笑しい。紅白饅頭は、ふたつあるから紅白饅頭なのに。ひとつで良いって。
ご飯、そういう季節の料理もちゃんと出して貰えるのね」
「充分過ぎるよ。ひと様の真っ当に納めた金がこんなところに流れて、申し訳が立たない。
……そうでなくてももうひとりの御世話係が、『ちょっと透 う、あんたの分、こっそり肉とか多めに盛ってやってるんだから、しっかり食べなさいよ。
もやしみたいなのが少しはふっくらした方が、朔 も喜ぶんじゃなあい?』って、頼んでもないのに、余計によそって……」
「…………うん。その『さく』さんも、きっと喜ぶんじゃない?」
「えっ……!? 何で名前知ってるんだ……、」
「……今言ってたでしょ。……と言うか、話し初めの段階から、何回かとっくに漏れてるよ……」
「ええ……っ、……違う、朔じゃない、ああもう朔だけども、違うんだよ、忘れてくれ……」
「良かったじゃない。そのお姐さんみたいなひとも、協力してくれて」
「してないよ別に。女より質 悪いんだから。それどころか隙あらば『ああ、掴み甲斐のある上腕二頭筋ねええ』とか腕やらべたべた触って、さ……、……もそういうの昔から慣れてるから気にしないって、流してるから余計に増長して気安く触って……っ」
成年を超えた男子 が、本人が居ないところでぶちぶちぼやいているものだから。
これは女子高生 でも、発破を掛けられる次元のやつだと認識して、呆れてついに言ってやったのです。
「もう、言っちゃえばいいのに、」
ともだちにシェアしよう!