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黒い、生身の眼
涙も零さず、声もかけず、ただ茫と兄を見下ろしている私の傍らへ、刑務官の方々が添うように歩み寄り、語りかけてくれました。
自分は、十数年この職務に就いてきて、同じ局面に何度も立ち会ってきた。
だが、この若さで、己れの罪と恐怖からみだりに取り乱しもせず、科された本当に重い責 を克服して、
ここまで完璧に果たせた人間は、いまだかつて、見たことがない。
このほそい身体のなかに、これ程の強い魂 を培っていたのかと。
ひとの持つつよさ。芯の強さのきわみ。
天川 はそれを、成すべき最たる瞬間に、我々に示してくれた。
ここにいる、誰よりも本当につよかった。
立派だった。 お兄さんは、本当に立派だった。
正直に、ひとの醜さや業 ばかりを見続けて、背けたくなることが何度もある。
お兄さんは、確かに重い罪を犯して、最も重い刑に懸けられて、ここへやって来た。
ひとは、そのひとにしか果たせない、果たさなければならない使命や役目を負い、辿る道があるのだと思う。
そしてそれは、出来るように見えて、誰もが容易く出来るものではない。
それを探すために、ひとは生き続けているのだといえる。
お兄さんは、いのちを賭して、罪を償い、
自分にそれを、教えてくれた。
そのいのちを、自分は繋げて、ひとや、お兄さんと同じかけがえのない生命 に、向き合っていかなければならない。
絶対に忘れないし、忘れたくない。
自分はひととして、お兄さんをこころから敬服するし、これからもずっと、 尊敬し続ける。
有難うございます。
どの方も、兄にこころを深く砕いて、言葉をしぼられているのがよく解りました。
身なりから、きっと上層部の方も多数おられて、殆どの方が熱く充血した眼を堪えていた。
こころの震えが、言葉に現れても隠そうともせず、際限まで歩み寄って、私に伝えようとしてくれていた。
それは、良かった。
罪を犯した者にとって、それは本当に有り難く、光栄以外のほかにない受け止めであったと思います。
兄も、社会に汚点を撒いたことを悔いていたし、ここに入ったことで贖罪の念を確実に養い、
ここにいる看守方 に、その務めを果たせた姿、最期を看とっていただけたことは、望まれる最上の『救済』のかたちを得られたのだと。
大罪を犯した身でありながら、与えられる際 ほどの恩恵を受けて、兄も常に感謝していたし、その表情 はいつも、穏やかでした。
導いて下さった皆さま、『先生』方の前だからこそ、兄は、発てたのだと思います。
唇から出る言葉に偽りはない。
本当に、そう思うし、『問い』への解答、所感であるなら、全て"正答"だ。
だけど。
まるで、他人事のようだと、そう思える呟かれた言葉の羅列を、空 に見上げるもうひとりの自分 の冷えた視線が、
昏い胸のうちへ、畔 から闇黒の底へと、緩やかに沈んでいくようだった。
責務、と呼べるほどの仕事ですから、解っています。
為すべき人間 がいなければ、この社会の治安、安寧は維持されない。
極めて重大、己れにも強く律しを求められ、遂行の意思はとても量り知れず、熾烈、という言葉を冠するのに相違ない。
ひとでありながら、同じひとの生命 と、相対しなければならないのだから。
だから、解っている。 『仕事』、であるのだから。
だけど、その口で。
兄を、尊い導きの光のように、それ程までにひどく、誉め讃えていながらも、
その口で、同じその掌で、
その生命を、無理矢理にひきちぎって、
辿っていた道程を、ほのかにでも抱いて、願っていた想いを、希みを、
ひかりの糸を断絶させたのは、間違いなく、
ここに在 るひとたちだ。
誰よ。
誉めながら。 奪ったのは。
お兄ちゃんを、 して
お兄ちゃんを。
私のお兄ちゃんを、
突き墜としたのは、 一体誰———。
最早兄から目を逸らし、何処か判然としない方向へ、底光りするような眼を隠しながらも射る私の許へ、
翳 りのない影が、冴えた空気とともに現れたのです。
「自分が、最後まで同行しました。
情の律せられた、憐れな規則に縛られた身ですが、それを超えない範囲で許される上限までは、
お聞きしたいこと、求められることはどんなことでも、
可能な限りお応えします」
黒い、だのに生気の煌めきにみちて、そのひと自身の、でもあるけど、誰かから受けとったような、
熱い魂 を宿したような眼をしたひとだった。
そのひとは、それまでずっと官服の群れの端に隠れていて、
他の方のように兄を誉め讃えたり、尊い礎のような称し方を一切せず、
ただ私を、その黒い眼で、私と、その背後にいる誰かをも、手に手を携えんとするかのような、
芯に迫る力とつよさで、揺るぎなく見つめていた。
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