72 / 96
世界に、私とそのひとの間に
香の薫りがつよく差してきたのは、束の間で、その空間に身体ごと瞬時に浸かってしまったからなのか、慣れるように直ぐ忘れました。
無風である筈なのに、あの煙が時折揺蕩うように振れさまようのは、何故なのか。
燃焼には、酸素が必要であるから、ひとの呼気を、精命 を、だれかがもとめて、愛 しんで、せめてその名残りを唇に掬いとるために、浮遊している証なのではないだろうか。
それだから、その室 自体、一目で霞のような膜に蔽 われている、という視覚を得たのですが、
そこだけ、何ものにも纏われていない無色の空洞のような謐 けさが沈んでいたので、
ああ、あんなところに寝ているのかと、直ぐ判ったのです。
枕飾りの台に、黒蜜のような潤沢を放つ香炉が置かれ、紫の華奢な棒からほそく濃 やかな紫煙が、真っ直ぐ天へ向かってたなびいている。
それは、やはりそのひとを包もうとはしない。
やっと直 の兄に会えると聞いたから、何年かぶりだろう。澱んで無数の傷の入った邪魔な障壁が遂に払われた状態で、
私とこのひととの間にあるものは、何もない。空気だけ。
でもまだその無数に拡がる酸素やら、甘ったるい香の練りこまれた粒子やらが存在するのかと気づくと、ああ、邪魔だなあと、
世界に、私とこのひとだけが存在すれば良いのにと、
思いながらも、ああ、やっぱりこんな皆んながいるところで寝ているのかと、
そう覚えるほど、覗きこんだそのひとの姿は、とても自然な状態でした。
銀とも映える艶を帯びた純白、絹を思わせる布地に、これは芙蓉か。唐草、波などの流麗な絵様が施された櫃 の枕許、小窓が開いていて、
沢山の花々にその貌を囲まれて、そんなところで、兄は眠っていました。
白の大百合、菊。合わせたように濃淡を揃えた紫の蘭、カーネーション。
吸いこめば、咽 るほどの甘やかな薫りの因 は、敷き詰められたこれらにもあるのだなと察しました。
眠っている。起きるかなと思って、私が来たのだからと、
眉に掛かった前髪を上げてあげたら、何もしなくても涼しく透かれている、ここも綺麗なんだなと知った兄の額と眉間がうぶに覗きました。
頬に、ふれる。
包むまではない、たどるような指で。でも、 まだ温かった。
頸 は、白い包帯が覆って巻かれていたけれど、何か傷を負っているのかとは、判らないほど綺麗に整えられていました。
耳の下に、つつしみの証拠であるような兄の黒子が、変わらずひっそりとした表情で浮かべられている。
少し手を伸ばして、兄の胸許に指をふれました。
服の上からでも、やっぱり温かみが返ってくる。
やめろよと、そろそろ言われそうで、でも兄の温度を確かめられて安堵したので、櫃から手を退 きました。 ——起きない。
本当に、見ればただ眠っているだけの状態です。
けれど、この残存している貌というものは、どんな小さな児 であっても、刹那に悟りいたる厳然とした事実だと思うのです。
当たり前のように、それこそ身体のなかを巡る血液 のように享受していた『生』という漲り、躍動。
それがあるかないのか、たったそれだけで、その貌というものとの間に何の阻みはないのに、全く違う次元、階層に在るものだと、
もはや歪 みを起して収拾のきかない、回帰不能の断層のような、分離。
そういえば、ふれた皮膚から当然生じる柔らかな弾み、胸からは、証である筈の鼓動が、どんなにか閑かなものでも、待っていて返ってはこなかった。
諦めたように、兄を顧みる。
また、 "この"貌なのか。
私は、またこの貌を、見なければならないのか。
あなたも、この貌をして 私を置いていくの。
再び、兄にふれたようとしたこの掌を、兄の真似をして、私も透明なふりをして、
透明な掌を兄に掲げて、透明になった兄のこころに潜 るようにして、問いかける。
お兄ちゃん。
桜、見なかったの?
あんなに 昨日、
そのひとと見るって、 楽しみにしてたのに。
どんなのだったのか。桜 を見て、どんな歌を、詠んだのか。
歌だけじゃなくて、少しくらいは、
そのひとと進展あったのかって、聞こうと思ってたのに。
見なかったの?
桜、 見れなかったの…………。
ともだちにシェアしよう!