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その手にふれる

 本当は、いつ、何があっても、直ぐ兄の許へ駆けつけられるようにと、出来る限り永く兄の傍に居たかったのです。  だから、その打ち明けには、私の未練を拭い去るためのある程度の勇気と思い切りが要りました。  だのに、それを聞いた兄の表情(かお)は、予想とは違う怪訝さで、これもまた中々見ることのない深さで眉が顰められていました。 「え、お前が……? ひとりで暮らす…………!?」  私が避けたかった、兄が『ひとり』になってしまうということへの懸念は、そこに少しも含まれていませんでした。 「宇治の家から通うんじゃないのか。充分そこから近いだろ、キャンパス」 「元々宇治のお祖父ちゃん()にお世話になるつもりはないよ! もうお祖父ちゃんたちもすっかり小さくなって、お庭の仕事も半分にしてるのよ。山茶花の生垣だって、辞めちゃったんだって、」 「ええ……、せめて入学して一年くらいは、お世話になったらどうだよ。それか寮とか。……ああ、情けないなあ。ただでさえこんな烙印みたいなもの押しつけてる上に、本当に『外』に出て、何もすることが出来ないなんて……、」 「お兄ちゃんが外に居ようがどこに居ようが、関係ないから! 私の独り立ちの問題でしょう」 「……本気で言ってるのかよ。どうもひとを疑うって目に遭ったことがなさそうだからなあ。ここにいると、ほんとろくでもない人間が存在するんだって思い知るんだよ。俺も含めて。朔さ……っ、……は、極めて稀なケースなんだよ本当に」 「解ったわよもうそのひとが好きすぎることは! お祖父ちゃんたちや知ってるひとが側にいるんだから、大丈夫よ。ずっと前から、行きたいって、決めてたのは知ってるでしょ」 「す……っ! 誤解を招く言い方するんじゃないっ! ……本当かよ。せめて、絶対管理人常駐なところにしろよな。低層階は駄目だし、だからって最上階に近すぎても近頃は危ないから……」 「まだ行けるかも判らないんだから! あ、長期休暇じゃなくても、こっちに来れる時は行くからね。新幹線で直ぐなんだし」 「いいよそこは。ただでさえ今も受験が近い癖に来すぎなくらいなんだから。…………そうかあ」  また、白い幹のような頸の側面を見せて、兄もこの時季の、なにかが(ひら)ける予感を感じていたのでしょうか。  それにそぐう、それこそ兄の貌自体がひとつの花弁のような、開花を匂わせるあたたかさと柔らぎに浸されていました。 「受かると、いいな」  兄から離れてしまうかも知れないことを、少しは寂しがるだろうか。淋しがってくれるだろうか。  私の浅い危惧と希みは、取り払われてしまったけど、兄が私の未来に、素描されているかも知れない希望の輪郭を、自分の処遇(こと)なんかまるで見えてもいない様子で喜んでいてくれることは、素直に、 嬉しかった。 「明日、桜咲くかなあ」  胸の積み荷がひとつ降りて、安堵したような吐息を漏らすと、兄は今度は、自分の『別の』場所を夢見るような眼差しを、彼方に向けていました。  やっぱり次の日の、そのひととの桜に、もうすっかり夢中でいる兄が、少し悔しくて、 こちらの佳いものにも振り向いてくれるように、声をかけました。 「ねえ、西東京の家の樹は、ずっと前から沢山花が咲いているのよ。梅も、桃も。 薄いピンクと濃いピンクで、可愛くて私大好き。あ、写真にしてくるの、忘れちゃった。今度見せるか、送るからね!」 「……うん」 「憶えてる? こっちの桜の樹に、小さい頃、お祖父ちゃんがブランコ作ってくれて、ふたりで沢山漕いだの。 あのブランコ、もうないけど、今も近所の小さい子たちが、庭に遊びに来てくれるのよ」 「……ああ。憶えてるよ」 「今日は、そのひとと逢ったの?」 「今日は会ってないよ。……お前が来るかも知れないって、言ったから」 「あらそうごめんなさいね、邪魔をして! ありのままで良いって言ったけど、お正月は笑われちゃって、折角いっぱい本読んで勉強してるんだから、少しはびっくりさせてあげられると良いね!」  アクリル板の先の、兄の貌。  澱んだ光が反射して、いつも邪魔をするけど、それでも私には兄の表情(かお)がいつだってつぶさに見えていました。  見ようと願って、いたからでしょうけど。  でも、それだけではその時は足りなくて、私は右掌を上げて兄に見せました。 「ねえ。これ、やろうよ」  高階(たかしな)さんも、きっと幾度もおやりになったことでしょうけど、ふれられない壁を通してでも、ふれ合いたくて、その手と手を重ね合わせて、生きている(おんど)にふれる。  もう何をも知らない頃を超え、手を繋ぐ機会も遠くなっていた私たちには、やはり気恥ずかしかったようです。 「…………何だよ、急に」 「いいじゃん。やろうよ」  それでも兄は右掌を上げ、私が添えていた右の掌に、近づいて、分かたれていたそのかたちがひとつに溶けさりました。  少し大きい、兄の指が、昔よくしていたように、膝に乗せて、私の身体を抱えこむようにして、指に被さり、  ああ、生きている。  微笑むような、生命の鼓動がひかりのようにきらめきを溶いて湛えている、熱を沁みこませました。  真実、微笑んでいました。  ひかりは、永遠です。  差して、この胸を徹っても、残って、いつまでも消えない私の一部(ねつ)になるのだから。永遠。 「私とも勉強したんだから。明日のお花見の成果、教えてよ。 約束ね」  約束。交わすだけで、それだけでも嬉しくて楽しかった。  その約束が、永遠に続いても構わないくらいに、私の先に在る兄の笑顔が、ひかりみたいに優しくて、 兄という存在が、その瞬間も、この未来(さき)までも、 ずっと、 きっと満ち足りているのだということを、伝えてくれたから。

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