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二十年(はたとせ)
『透』って、佳い名前だよな。
……ごめん。ちっともそう、直に呼んでやることが出来ないままで。
お前は朔さん朔さんて、何度も呼んでくれていたのにな。
…………怖かったんだ。
もう、ひとなんか想っちゃいけないと。
愛してなんかいけない。そんな資格は、ひとを殺めた掌を持つこの俺には、もう持ち得る筈がないんだと。
生涯、赦されることはないし、それにその想いを、受け容れるための"別の"器も持ってはならないと。
お前のその想いに、真正面から指をふれて胸に融かしてしまうことが、
正直に、怖かったんだ。
いい歳して、歌に詠んでこころを開け放ってみようなんて、俺の方から手をとった癖に。
なんて、臆病の薄情者なんだろうな。
透は、本当にその綺麗な名前そのまんまに、その想いが、水のように透けて、
瞳 を、想い出すんだ。
言葉はなくとも、遠くから、目線を下げると華奢な肩と並んで見上げていた、黒い湧き水のような眼差しを。
お前は、俺や『皆んな』が抱えている余計な建前や縛りごと、くだらないものなんか全部取っ払って、
ありのままのこころや揺らめきを、まるごと見せて俺にぶつけてくれたのにな。
だから、ふたりきりになったら。
こころの誰も知らない奥では、いつだって。
お前を、もうその『名前』で何度も呼ぶと。
透透と、何度でも呼んでやるんだと、
誰にも聞かせない、俺とお前だけの間で交わされる秘密で約束の言葉 なんだと、
胸に刻んで幾度もそう繰り返していたんだ。
ふたりで交わして、叶わなくて。俺だけが呼びかけ続けた約束から、二十年。
二十年も、経ってしまったんだな。
あれから、お前の知ってるひとも、知らないひとも、沢山現れて、沢山通り過ぎていったよ。
料理係の楊 さんは、あの後直ぐ「代わりに食べて下さい」って、泣き出しそうな目してこし餡の桜餅、作って差し出してくれたんだ。
悲しかったけど、食べた。
あれから拘置所 で出る桜餅は、ずっとこし餡で決まりだったよ。
真面目で良いひとだったから、勿論きちんと罪を償って、今はもう故郷 へ帰ったよ。
廣 さんには、もう会えた?
そんな素振り全然見せなかったけど、透がいた時からきっと、ずっと病と闘っていたんだ。
でも最期は、決まり文句だった望み通りに、『いい男』たちに囲まれた後宮 状態で、旅立つことが出来たんだ。
最終的に一番のお気に入りは、よく話し相手になってくれて"拘置所 での終 の夫"だってくっついてた山下 先生だったんだろうな。手、握って貰えながら逝けた。
そう言えば透と廣さん 、顔合わせると何でかよく憎まれ口叩いてたけど、そっちではもう仲良くやってくれよ。
お前がいなくなって、裏で一番悲しそうにしてたのは、廣さんだったし、廣さんのあの手厳しい叱咤と激励がなければ、俺は立ち上がることが出来なかったんだから。
園山 先生は、偉くなって、反抗期の女子高生に苦悩するもう立派なパパだし、明日から地元の九州へ栄転だ。
受刑者に情なんか要らないなんて、さっきとうとう素の顔漏らしてたけど、
透のことは、ずっと気にかけていて、事あるごとに名前、口に出してたし、厳しく律していた『情』を、本当は一番に感じていたんだと思う。無理もないよな。
負い目とか、職務に対する礎や、色んなものを纏った尊い大事な生命の象徴として、透はきっと忘れられる訳がなかったんだ。
もう、会うことは叶わないんだろうけど。
あんな監獄のなかで、災厄で救いようのない出会いと関係性でしかなかったのに、
いつか、もしどこかでまた会えたらと想える、極めて稀有なひとだった。
……ずっと支え続けてくれていて。離れていても、気が遠退きそうなほど永い年月、変わらず俺を待ち続けてくれていた千景 も、もう、いなくなってしまったんだ。
やっと、その手に触れられると叶いそうだったのに。
身体を蝕まれても、生きる煌めきを忘れない強い女 だったけど、どんなに、どんなにかこころ細かっただろうと、俺は最後まで本当に体たらくだった。
やっと、その手の甲を握って温めることが出来る。
だけど、もう少し。
それまで、あともう少し。……まだ、少しかかりそうだ。
俺、ひとりになってしまった。
それまで築き上げてきた大切なもの。未来も、ひととしての倫 も、総て投げ棄 って構わないという溢れる奔流に身を任せるままにして、罪を犯した。
だから、もうこの先も、ほんの少しでも残って掬えるのかも知れない未来 を、愚かにも零したままでいとわないと、俺もそう思っていたんだよ。
けれど。会う人、会うひと。透も。
俺の前に現れて、通り過ぎていったとしても。
塀のうちでも、外でも。俺と出会ってくれたひとたちの総てが、本当に得手勝手な見え方かも知れないけれど、
いつ落ちるか判らない頸の皮一枚で繋がっていた俺の生命を、そっとその掌 たちで、
繋ぎ留め続けてくれた気がするんだ。
だから、いま俺が向いているさきは、前なんだ。
皆んなが繋いでくれたこの生命 を、最期のその瞬間 が尽きるまで、そのためなんだから、 俺は全うしなければならない。
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