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ずっと

 外界へ出た俺は、すっかり短髪に白いものが散らついて、表情筋が躍動する瞬間は確実に奪われたのに、薄れる事のなくなった皺を刻むようになり、 活動服さながら纏っていた筋肉はかつての張りを失われ、くしくも土埃(カーキ)色の上着(ジャケット)を着込んでいるが、いつか、初めて会ったとき連想してくれた特殊部隊だとは、もう誰からも呼ばれないだろう風貌となった。  俺、こんなに歳とっちゃったけど、良かったかな。  外界の光と、桜に囲われて、遂に果たした約束に万感を抱きつつも、幾年を経てありのまますっかり老けこんだ姿が彼の前に晒されてしまったようで、 自嘲気味にぱさついた髪を、隠しようもなく搔く。  そう言えば廣さんが、気利かせて『朔はイケ(ジジイ)になって現れるから、それまで楽しみに待ってろ』なんて、透に伝えておいてやるって言ってくれてたけど、 いまの時点から、もう、どうかな。流石にこれは、ないかな。  全くいけてもないし、務所上がりの、五十過ぎてどん底までくたびれた、枯れ真っ盛りの中年で、 こんなに永年待たせた割に、色々大事なこと、相変わらず気づくのが遠回りばかりで、 流石にもう、待ってなんかない。——がっかり、かな。  いまし方託された手紙を胸から取り出し、それでもそれを見つめる眼差しは、面映さと変わらぬ温かさに包まれていて、その気持ちのままに唇を綻ばす。  俺は、逢いたかったよ。ずっとずっと。  やっとふたりだけで、約束の桜を見ることが出来て、 いまも、やっと透の(じか)の想いにふれて、俺の許に戻ってきてくれることが出来たんだから。  嬉しいよ。凄く。  だけど、透は、どうかな。  "この"時と変わらない気持ちで、今も俺のこと、見ていてくれるのかな……。  薫風が瞬いた気がする。春を謳歌する花々たちの溜め息を漏らす唇とは違う、 さわりと優しい風が、どこかで、だけど傍らに吹きこまれて、忍ぶように笑んだ気配が、 そっ、と感じられた気がしたのだ。 『流石は廣さん。男に関する見立ては完璧だな。 でも、俺と出会った時みたいに若かろうが、渋味の染みこんだ古木の樹肌(はだ)みたいだろうが、 朔さんは、朔さんなんだから、それは、当たり前だよね』 『退官間際の軍人(アーミー)みたいで、抜群に格好良いよ』  囁いて、笑みがきらめいた気がして、顔を上げた。  手のなかで開かれて、そこへ綴られている慎ましやかな文字たちが、この桜の大海でついに解き放たれて、 黒くほそく、かたちを纏って浮かび上がり、 俺のなかへ漸く静かに還ってくるような、感覚が降りてくる。 『好きだよ』 『ずっとずっと、 大好きだよ』  あたたかい。  いとおしい響きと、透んで煌めく面影に包まれた心地に溶けて、 くすぐったく、だけどこの上ない桃色の景色のなかで、 俺は、 喩えるすべもなくしあわせだった。  応えるように、手のなかの紙片をよく開いて、そこへ連なる黒く無垢な一文字一文字を、掬い漏らしはしないように真摯に目で辿っていく。 「…………。…………えっ……、」 「…………いきなり、これか……」  つい先ほど頬に灯されたぼわぼわが、再び甦ったようで、 やはりこれは、とても出先などで流し読み程度におさめられるものな訳がなく、 じっくりじっくり、待たせてしまった分だけ、そして俺のこれからの余生をかけて、添っていく存在になるべきものなのだと。  ごたごた並べてはみるが、要するに、単純に引き出される照れが凄まじくて、小休憩を挟めざるを得ない。 「…………大人しそうな顔して、相変わらず不意の打ちが剛速球なんだから……」 「幾ら仲の良い妹だからって、あんまり楓さんを、困らせるなよ……」  一通、大事に通して読んで、胸に元通りに仕舞い、けれどまだふれることの出来る彼の想いが沢山あると、残されたその温かみに安堵を覚えて綻ぶ。  ……そうだ、透。  あの桜の樹に詠んでくれた歌、——……見たよ。  有難う。 嬉しかった。凄く。  物凄く悲しかったけど、嬉しかった。  素晴らしかった。  きっと、俺が生涯目にして耳にするどんなものよりも、 最も透んでて、優しくて綺麗で、くるしくて切ないけど、一等慕わしい歌だよ。  お前の妹も、凄いんだけどさ。誰にも、 俺のなかで超えることの出来ない、誰にも明け渡しはしたくなくて、いつまでも、 もしかしたら、俺の生命の燈火が(つい)えるその時に、胸に(とも)るのは、あの歌なんじゃないかと。  そう想える、そんなことを想えるのは、きっと後にも先にも透のあの歌だけだよ。有難う。  ……それで、歌、詠みあっただろ。ふたりで。  だから、俺も。相変わらず下手くそだけど、 透に返して詠んだんだ、——歌。  俺は、千景と()まりを一等に据えなければならない気持ちを、きっと代えられない。  そして透が抱えていた、身体の奥底で渇望していた熱を、充分に埋め尽くして与えてやることは、出来ないのかも知れない。  だけど、ああ返したかった。  後にも先にもないのは、俺も一緒だよ。  触れられないのに。この目に映すことは、もう得られないのに。  だからこそ、でもそんなことの意味なんかもう成さなくて、 誰かのことを想って、その名前を乞うように繰り返し描いて、 こころに紐解いて伝えたいと願ったのは、 透だけなんだよ。  こし餡の桜餅、持ってお前の眠っているところにも直ぐに逢いに行くから、待っていてくれ。  塀の外へ()て、初めて眼に映した(そら)の色。  迷いなく誰かと見上げている心地で、ついに見ることを遂げたこの薄紅の天を、 下りることを赦された大地にしっかりと足を着け、誰よりもはれやかな想いで、俺は仰ぐ。  透の隣に、返したから。  見て、くれると嬉しいな…………。

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