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   風が、ひとの髪を攫うなら。  桜が、こころの郷愁を優しく奪うのなら。  目の前の、この唇が、たとえ真実(ほんとう)温度(ねつ)を喪っているものだとしても、 自分のために、ひらかれて、自分を求めて焦がれる想いを詠ってくれるのなら。  俺だって、彼によって救われた。  誰も()り得ない、彼の昏闇を手のひらに浮かべて知ることが出来ていたし、 俺の、他愛ない戯れや、心の臓を掴まれ続けた日々をともに解きほぐして、 そして俺の、きっと生涯誰にも明かせはしない、醜い弱さ、傲りや呪わしさも、彼はきっと視ていて、 それをもその静かなこころのうちに仕舞って、受け容れ溶かしてくれた。  それでも、求めてくれていた。  それを今度は俺が求めて、せめてこの息吹を吹きこむように、 彼の透んだ魂ごと、今度はこわれないように、 指で包みこんで俺で満たされるようにして。  そんな高等な想念など要らない。  単純に、目の前のこの存在にふれて、 華奢な瞬きや肢体や魂ごと、もう攫ってしまえばと、 誰が見ていても、桜が肩に滑り降りようと、 もう一切のしがみつきを置き去りにして、 感じるのは、この大地に足を立てながら沈みこんでいくお前の唇の柔さだけでいいと、 願って、掬ってしまったのは、 もう、 必然なんだ。  …………桜。  ——あ、……そうか。  今日、咲いていたのか。  約束、……してたからな。  甘い、清楚な優艶が。吸いこまなければ、判らないような控えめな馥郁(ふくいく)に満ちているなと思っていたのに。  いま、もう視界が、薄紅じゃなくて、 温かい、ひなたみたいな薫りと限りなく優しい柔らかさ。  そしてまさに、このひとそのものの生命(いのち)に包まれていて、 この柔らかさ、また痺れて、昇りつめてしまいそうだし、 温かすぎて、もしかしたら、還ってくることが出来るかも知れないと錯覚してしまうほどだけれど。けれど、  朔さん。 ねえ、  これじゃ歌、詠めないよ。  まあ、…………いいか、  初めて知る、輪郭をたどるように、淡く紅梅一色に染められた二対の縁を、その色素さえも掬いとろうとなぞっていた唇へ、 そんな優しいなぶりでは足らないと、 控えめに彼の腕のなかで落とされていた腕が、やがて昇っていき、 天にも縋るように伸ばされた指が彼の後頭を引き寄せて、 貴方のいのち、俺も掬いたい。もう遅いのかも知れないけど、掬わせてよ。 ずっとずっと、こんなもんじゃなかったよ。  懸命に伸ばされて、彼の髪、耳、頬までも惜しむように辿って、 彼の深淵への入り口をまだ探っていたその唇へ、 惜しみなく彼もそこを開け放して、 躊躇いのふるえはつかの間、もどかしさを忽ちに妨げられず、桜色の舌で彼を絡みとりにゆく。  また求められて、応えを持たない熱はもう存在しない。  肩を、腰を、顎なのか。艶を帯びる後頭の黒髪を梳いたのか。  彼の肢体、魂ごと掻き抱くようにその身体を綴じこめて、 求めて、応えて、どちらがそれを成しているのか、わからなくなって、 時折顔が見たいと、朧げに開かれたまぶたのうちから目前に縋ろうとするも、 それすら惜しむように、本当はずっと求めていた、互いの半身がついに重なる悦びに溶けて、おぼれて。  こすれそうでこすれ合わない歯のすれ違う、だけど傾ぐ肢体が、唇のこたえあわせのためにまた縫いとられて、 気が遠くなるほど、隔てて重ねられた時の束を、一瞬間で溶かしたこの甘さのさなかでも、欲張りにも交わしたくて、 ひとつになった意識のなか、そこでもその頬と耳に鼻をこするようにして、囁く。  還ってこい。  ごめん、難しいかも。  …………そうか。  うん。でもいいじゃん、 だって、もういま  やっと、 こんなに溶けてる。  それすらが呼吸(いき)であるかのように、(いだ)きあい続け、 溶けあっているのに、永遠にひとつになれない、 けれどそのくるしさなど無意味のうちに溶解させる、 ふたりだけの遊泳へあまくるおしくしたたり続けるふたりの頭上で、 花弁の腕を伸べていた大樹が、彼等の代わり、とでも(ささめ)くかのように鼓動をふるわせ、 その息吹の(みなもと)の溜め息を そうっ、と()いた。

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