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あとは、桜しか

 腕のなかの瞳と、少しふてくされて妙なかたちに引き結ばれた唇で。言葉には現れていなくて。  ありのままで、こころを飾ることが実に不得手な、(よわい)を経てもなお純朴にすら映る男の、混じり気のない感情が眼のなかでほわと開く。  吐息のような、流石に吹き出しと捉えられるのは憚るような笑みが、漏れて目尻の皺が色濃く刻んだ。 『ごめん』  どんな色をしていても。たとえ彼が、自分の欲しい"色"で自分を映してくれていなかったとしても。  彼の穏やかな眼差しで。その瞳のなかで、彼から溢れる温かな感情のなかに、 自分がすっぽり埋まってその色に染まっている姿を見つけるだけで、 それだけで充分だったし、──しあわせだった。  その彼の眼差しが、いままで知っていたものにはない濃さで、密で、ひとりの男としての(あや)と熱を宿していたのを、 目前の彼の瞳に、過ぎったかどうかの刹那だった。 『子どもだなんて思ったことなんか、ないよ』  透は、透でしか見たことなんか、ない。  白い額を隠す濡羽色の髪が、微かな春のそよぎで揺れていて、 その下の、切れ長なのに、黒目が無音の『言葉』を潤沢に訴えてくる、純粋な墨染めの硝子玉みたいな瞳が、自分を見上げている。  いつも、この瞳で、つよく囁いて。瞳の指で、差し伸べていて。  いまは、もう少し屈まないと見えないけど、その白い頸の左側面にある、彼の情念の火種のような、 その(のど)に詰まった言葉(おもい)を呑みこんで、一緒になって密かにふるえている、黒子のことも。  全部、全部知っていたのに。見ていたのに。 『…………そうだな』  ありのままに見えて、本当はまた彼も隠していた。  犯した罪に、指先まで染められた自身の呪わしさ。  彼が彼であるために、この社会(せかい)に生きていくため、附着して身に纏っていた、あらゆるもの。  彼の奥底にある鎧われた扉の軋む音を、 同じところまでついに沈んだ黒い瞳は、その腕のなかで、 (新月)から漏れ兆すひかりのように聞いた気がした。  過ちを赦され、罪の枷を外され。  まっさらな。何の取り繕いもそぎ落とされた、 このこころとからだしか、この身には、もう残されていないのだから。 『目の前には、もう、(おまえ)しか いないんだからな』  あとは、桜しか。俺たちのことを見ていないんだから。  放たれた眼差しがとらえたいと揺り動かされたのは、黒い瞳だった。  それだけじゃない。  空虚な呪いを吐いたことも、微笑ましいむつごとも。  自分のために、こころをくだいて(うた)ってくれた唇を。  その唇で洗礼を施された右掌で、白い顎から、攫うために掬った。

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