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第10話 キスしてしまった

「気持ち悪いか?」    目を見開いて固まってしまった雪本に、柳が優しく問いかける。  気持ち悪いも何も、いったい何が起きているのか酔っぱらっている雪本には理解できていなかった。  分かるのはただ、柳がふざけている様子ではないということだけだ。   「この手、どけてええかな?」    胸の間につっぱねた雪本の手を取って、柳は壁に押しつけた。  近づくとフワリ、と柳のつけているコロンの香りがする。  柳はこんな香りだったっけ、と検討違いのことを頭の片隅で考えているうちに、再び唇が重ねられた。  温かく湿った唇が押しつけられ、こじあけるように舌がすべりこんでくる。  さっきのキスとは違う、本気のキスだ、と気づいて雪本は身体を硬直させる。    男とキスしてる……ただその事実だけがぐるぐると頭の中を回っている。  生温かい柳の舌に優しく口内を弄ばれ、雪本は身体の力が抜けてしまった。  まるで腰が抜けたように柳にしがみつくと、柳は雪本を強く抱きしめながら、さらに深くキスをする。    ぐちゃぐちゃにキスをされながら、雪本はただトロンとされるがままになっていた。  酔っぱらっていても頭の片隅で相手が柳だということは理解している。  それでも振り払うだけの理性がなかった。    気持ちいい……柳はこんな風にキスをするんだ……  ずい分長いキスの後で、ちゅ、っと音を立てて、柳はやっと唇を離した。   「雪ちゃん……危ないなあ。俺みたいな男につけ込まれて」 「柳さん、俺には手出さないって言ったんじゃないんですか」 「そやなあ、確かに言うた。約束破って悪い」 「反則だけど……今は俺、一人で歩けませんから、助けて下さい。連れて帰って……」 「分かった、ちゃんとタクシーで送っていくから。歩けるか?」    柳は雪本に肩を貸しながら通りへ出るとタクシーを止めた。  雪本に住所を聞いて運転手に告げると、自分の肩に雪本をもたれさせる。   「寝ててええよ。ついたら起こしたる」    うなずきながらすぐに雪本は寝息を立て始めた。  柳は酔っぱらってはいるものの、雪本よりはしっかりしていた。   「雪ちゃん……ありがとうな。俺、嬉しかったわ」    眠っていて届かない言葉を雪本に囁きながら、柳は雪本の頭をなでてやっていた。  雪本が次に気がついたのは、翌日、自宅のベッドの上だった。    目覚めた時、雪本は自分がどこにいるのかも一瞬分からなかった。  見回してそれが自宅であることに気づき、ほっとする。  いったいどうやって帰ったのかも曖昧だ。  タクシーに乗ったような気がするが、そこから先の記憶は空白だ。    なぜそんなに酔ったのだろう。  特に体調も悪くなかったのに、と思い出すうちに、最後に行った怪しげなゲイバーを思い出す。  そうだ、あの店でカクテルを一気に飲んだ後、急に酔いが回って……    そうだ。  キスした……柳さんと。    記憶は曖昧なのに、その感触だけは妙にリアルに脳内に再現される。  生温かく唾液で湿った唇に包まれて、口をこじ開けられて、舌でかき回されるように激しく……と思い出すと、体中が熱くなって頭を抱えたくなる。    知りたくなかった。柳がどんなに情熱的なキスをするか、なんて。  どんなに否定したくても、その瞬間にうっとりと陶酔してしまったことは認めないわけにいかなかった。  最後の方は自分からも舌を絡めてしまったような気がする。    普通、男はキスをすることはあっても、されることなどめったにない。  まして、他の男がどうやってキスをするのか、などと知ることは一生ない。    柳さん、なんであんなことしたんだろう……俺には手出さないって言ってたのに。  酔っぱらっていたのだろう、とは思う。  最後の店で柳と雪本は同じカクテルを飲んだ。  同じものを飲んだ雪本が前後不覚になったぐらいだから、柳だって酒が相当回っていたはずだ。    酔っぱらったはずみだろう、と思うしかない。  ゲイバーなんて行って、寂しくなったのかもしれない。  それに、たかがキスじゃないか、と雪本は自分に言い聞かせる。  前後不覚になった俺をホテルに連れ込んで酷いことをした、というのではないのだ。    ただ、優しく抱きしめてキスをしてくれただけだ……  思い出すだけで、胸が痛んで泣きたくなってくる。  柳の唇にもう一度触れたいという衝動がわき上がってくる。    俺……柳さんが好きなんだろうか。  それとも最近ゲイバーに行ったり、佐野の話を聞いたりして感化されてしまっているだけだろうか。  そうだ、タクシー代を柳が払ってくれたはずだ、と思い出し、雪本は携帯を手にとる。  キスのことはおいといて、ひとまず送ってもらった礼ぐらいは言っておかないと、柳は一応会社の先輩だ。    メールを打とうと携帯を開いてみると、柳からメールが届いていた。 『雪ちゃん、大丈夫か?俺も二日酔いしたよ。昨日のこと覚えてる?』    柳のこの質問の意味はなんだろう。  覚えてる、と言ったらなんと返事が返ってくるのだろう。  謝られるのも怖い。  あれはつい酔った勢いだからごめん、と言われそうな気がした。   『送って頂いてありがとうございました。二日酔いは大丈夫ですが、昨日の二軒目の途中から記憶がありません。迷惑かけてすみませんでした』    覚えていないことにしておこう、と雪本は決めた。  柳は多分覚えているだろうけれど、こっちが覚えていないふりをしていれば、なかったことにして元の二人に戻れる。  柳と変な関係になりたくなかった。  これからも一緒に仕事をしていくパートナーみたいなものだ。  今まで通り、仲良く飲みに行ったりできる友達でいたい。   『俺もかなり酔ってたから気にせんといて。でも、楽しかったわ。また行こうな、二人で』    二人で、という文面を見ると、また胸がぎゅっと痛くなる。  もしまたあんなことがあったら、どうしたらいいのだろう、と思う。  柳は昨日、身体だけの関係は不毛だと言っていた。  きっと柳のことだから、心も身体も分かちあえるような恋人が欲しいのだろう。    俺はそれになれないじゃないか、と雪本は思う。  佐野なら多分そんな相手になれるんだろう。    ベッドの上に転がって、柳のメールを何度も見ながら頭の中では何度も昨日のキスシーンが再生されている。  もし、柳とその先までいってしまうことがあったら……。  妄想というのは頭の中で勝手に増幅していくものだ。  柳と裸で絡み合って、尻の穴に巨大なモノを突き立てられる一歩手前で、雪本は自分の妄想を強制シャットダウンする。    俺には無理だ。  キスぐらいはできても、その先の柳の欲求には応えることができない。  だから、中途半端に柳のことを好きになってはいけないのだ、と雪本は思った。  

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