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第6話

「借金?」  佐伯と姫木の前で俯いていた友哉は、その一言を告げて黙り込んでいた。 「その借金は、博打でか?」  やはりそこまで知られていたか、と友哉は膝の上で両手を握りしめる。 「まず不思議なのは、なんでまた賭場になんて出入りし始めたのかってことと、金子との関係だな」  友哉に気を遣っているのか、極力静かな口調で佐伯は問うていた。  友哉は一つ大きく息を吐き、ゆっくりと話し出す。 「バイト先の居酒屋で…金子さんがお客で来てて。ほぼ常連さんだったから俺も気を許しちゃったのも悪かったけど…お金が稼げるとこないかとか、別に紹介してほしいっていう意味で言ったんじゃないんだけど、そんなことを話してたら、いいとこあるよって…」  やはり最初から金子絡みだったのか、と2人して同時にため息が漏れた。 「確か賭場あそこのシステムは、持参金(サゲ銭)無しの全て貸付だったよな。それでやられちまったってことか」  サゲ銭なし;もとより自分が持っていった金で遊ぶのではなく、その場で取り敢えず貸元から金を借り、それで遊ぶということだ。個人財産があるものならば、そこでいくら借金をしようと後で返せるし、そこで大勝ちをすればそれはそれで帳消しとプラスになるはずなのだ。  友也とて、そこまで金に困っているわけではなかっただろうし、最初の少しの借金の時に返しておけばこんな目に遭うこともなかったのではないかと佐伯たちは思う。 「で、いくらなんだ。借金」 「800万…」 「800万??」  思わず声が出る金額だ。なんでまたそんなに膨れ上がったのか…。 「せいぜい2.3百万かと思ってたが…それは…」 「俺、何十万辺りでもう止めるって何度も言ったんだけど、金子さんがどんどん借りてきちゃって、借りてこられちゃったらやるしかなくて…」 ー気づいたら…ーと 再び俯いて、自分の膝の上に涙を落とした。 「あいつ、最初から狙ってやがったな」  佐伯は吐き捨てるように言って、2本目のタバコに火をつける。 「それで、こんな仕事させられて借金返してると」  友哉の肩が震えたが、その後ーはいーと小さく応えた。佐伯はーいいかーと言葉を繋げタバコを咥えてしたから友哉の目を覗き込んだ。 「借金は多分、そんなには返せてないと思う」  友哉の目が上がって、佐伯と目があった。 「俺らの世界だと、真っ当には返済できないことになっててな。トイチって聞いたことないか。10日で1割の利息が付くってことなんだが、俺らはそれでやってる。それでもかなり良心的だ。だがな、悪どいところだとトゴと言って10日で5割つくところだってある。金子は良心的か?」  そこまで言われて、友哉はもう隠そうともせずに涙を溢れさせる。 「だからこんなことして借金返してるつもりでも返せてなくて、ずっとこんな仕事をさせられることになるんだぞ」 あまり追い詰めんな、と姫木が途中割って入るが友哉は大丈夫、と姫木の足に手を置いた。その手を取って、姫木は 「もう、こんな馬鹿なことはやめろ」  とその手をぎゅっと握り込んだ。吐き気を催すほどこの一件に胸を痛めている姫木だが、事はそう簡単に収まるものではない。事情はわかった今、このまま友哉をここにおいておくわけにはいかなかった。まずはここから脱出させることが先だ。まあ元々そのつもりできたのだが… 「お前何か考えあんのか?」  少し思案顔の佐伯に聞いてみるが、 「うまくいけば…の案なら」  という曖昧な返事に、姫木は嫌な顔をした。 「もう一か八かはやめてくれ。確実な方法はねえのかよ」 「今ここでできることは、戸叶と佐藤を呼びつけて騒動を起こすか、密かに友哉君を連れ出すかの2択だ」  どっちも無理そうなんだが…姫木は嫌な顔をますます嫌な顔にして佐伯を見る。 「友哉君さ、たとえば俺たちが終わったよ、って下へ行くとそれからどういう動きなんだ?」 「あ、少しして金子さんがここに集金に来ます。お金は俺が受け取ることになってるんで」 「なるほどね…」  佐伯は再び数秒考えてから、よし!と声をあげ、 「そしたらじゃあ、俺と友哉君で一緒にここを出るから、姫木は残れ」  唐突にそう言って、佐伯は立ち上がった。そして姫木と友哉にお互いの服を交換するように告げる。 「え、でも金子さんはすぐにくる…」  友哉の声に被せ気味に 「今救援呼んでる」  スマホを取り出しやにわに電話をかけ始めた。 「おい、わかるように話せ」  姫木も流石に苛立ってくる。 「あ、佐藤?俺だけど、お前さ、あと…そうだな1時間ぴったり後に、金子と接触して友哉君を買いたいって交渉をしろ。2丁目であったサラリーマンに話を聞いてきた、とかでも言えば多分大丈夫だと思うから」  多分とは随分曖昧な…姫木はなんだそりゃ、と声に出す。ーまあまあ、大丈夫だってやってみなきゃわかんねこともあるし、な?頼むわー 多分電話の向こうの佐藤は、ごねにごねてるに違いない。 「一体なんなんだよ」  佐伯が何をしたいのかさっぱり読めない姫木と友哉は、ちょっと楽しそうになってきている佐伯を睨んだり見つめたり。 「じゃあ説明しよう」  佐伯は再び元のところへ座り直した。 「まずは、大体今から1時間くらいしたら、佐藤が金子に友哉君を買いたいと交渉することになった。その頃合いを狙って、俺が友哉君を担いで下に行く。さっきやつは俺らのタッパのこと見てたから、姫木と友哉君のタッパは誤魔化せねえだろ、だから無茶したら相方伸びちゃって〜くらい言えば担いでんのくらい納得するだろ。そうして俺らとすれ違いで佐藤にこの部屋に入ってもらって姫木と合流っていう作戦。佐藤にはどうしてもすぐにすぐにと言えと言ってあるから、集金は後回しになる かも しれん」  2人は唖然。言いたい事はわかるが…いや、これは無理…そういう表情しかできない 「佐藤が来る前に金子がきたら?」  姫木の真っ当であり素朴な疑問に、少し言葉を詰まらせるが 「お前なら、大丈夫だろ?」  信用してんだよ、と笑う佐伯に姫木は他人事だと思いやがって、とは思うがまあ、佐伯も友哉を背負って金子と会うという賭けをするのだから、五分五分とは言わなくても仕方ないかと納得するしかなかった。 「で、なんで1時間も取ったんだ?」 「ここ来てまだ15分かそこらだぞ?普通はそんなに早く終わらねえだろ」  考えてみりゃそうか…特にお前はしつこいもんな、という言葉が喉まで出かかって、あっぶねと咳き込むふりをして姫木は誤魔化した。 「なあ…」  佐藤は戸叶から佐伯の指令を聞いて暫くは黙っていたが、何かを思ったらしく運転席の戸叶に顔を向けた。 「さっきの電話さ、佐伯さんお前にかけて来たじゃん?」 「? うん」 「なんで新浜さんを買うように交渉すんの俺なの?」  佐伯は確かに佐藤に行くように言った。 「さあ、お前が適任と思ったんじゃね?」 「男を買うのが………?」  お互い顔を見合って、色々考えたが、 「あまり深く考えんなよ、佐藤」  と、戸叶が宥めるしかなかった。  1時間後、友哉のスマホが鳴った。 「はい」  電話をとる瞬間確認した名前は金子だ。 「はい、大丈夫です。ええ、もう。はい、じゃあ入れ違い来てもらってください」  慣れた口調が、佐伯と姫木の胸を突く。 「佐藤さんて人、うまく話しつけたみたいっすね」 「お、流石だな。じゃあいくか」  姫木のコートを着た友哉は、オオタニサンのエンジェルスのキャップを目深に被り佐伯の肩に担ぎ上げられた。 「じゃあ姫木、後は頼んだぞ」 「おう」  見送ろうと玄関まで来た姫木に、 「あ、それと」  と 佐伯が振り向く。 「くれぐれも佐藤とアヤマチを起こさないように」 「殺すぞお前!」  かなり本気の声で姫木が唸る。その声に佐伯の肩の上の友哉の体が緊張した。 「友哉君怖がっちゃったじゃんか。あまりしろーとさんをおどすんじゃないよ。じゃあな」  担いでいない方の手を振って、佐伯はドアを出る。  姫木はその閉まったドアを思い切り蹴り、深さにして3cmほどの凹みを作成した。やべえ、とは思ったが 後で佐伯に払わせればいいや、と姫木は部屋へ戻って行った。 「お疲れ」  一階に降りた佐伯を金子が迎えた。  ちょうど佐藤をエレベーターに乗せる所だったらしい。 「どこで楽しんでたんだ?ベッドは使わなかったみてえだけど」  その金子の言葉に、佐伯と佐藤が反応した。ーそういう事かー 「いやあ、俺たちでかいじゃないっすか、しかも3人って事でベッドは狭そうでね、リビングで盛り上がっちゃって」 「その割に友哉は元気そうだったな」 「あの子はタフだねえ、いい子抱えてるよ金子さん。こいつなんかほら、伸びちまって。いい子を紹介してくれてありがとな。またよろしく頼むよ」  できるならあまり長く金子と対峙していたくはない。気をつけてても、ボロが出る時には出てしまうから、できるだけ焦りを悟られないようにそれでいて迅速にこの場を去りたかった。  言うだけ言って、佐伯はじゃっと軽く挨拶してマンションから出ようとしたが、 「おい」  と金子に不意に声をかけられる。 「なんすか?」  にこやかな顔を金子に向けて振り向いた。 「あんた、またよろしくって俺の連絡先知らねえだろ。これ名刺持っといて」  金子はジャージのポケットからケースを取り出し名刺を一枚佐伯に差し出してくる。 「あ、そうすよね有難うございます。じゃあありがたく」  片手ですんませんとか言いながら名刺をうけとり、 「また、連絡するんで」  と手を振って、ようやくマンションからでることとなった。 「びっくりした…」  背中で友哉が小さく呟く。 「俺も」  名刺を一瞬眺めてー情報くれるよなーと一笑し、一応ポケットへとおさめた。  マンションの敷地に入るまっすぐな道を歩いているときに、友哉が少し頭を上げて佐藤がエレベーターに乗るのを確認する。 「佐藤さん、エレベーターに乗りました」 「お、サンキュー。じゃあ今のところはうまくいってんだな」  そう確認しあい、突き当たりまでいったところの道路にでると、佐伯は左右を確認した。左方向にレクサスが止まっていて中から戸叶がでてきた。 「お疲れ様です」  と労いながら近づき、友哉を下ろすのを手伝ってくれた。ずっと同じ格好でいた佐伯の左肩がギシギシと軋み、限界だった、と笑う。 「それもお疲れ様でした」  と戸叶も笑い、友哉はすみませんと恐縮していた。 「で、どうでした?首尾は」 「ああ、佐藤はちゃんと部屋に入れたみてえだな。エレベーターに乗るのを友哉君が確認してくれた。集金も後になったようだし、ラッキーだったよ」  友哉を後部座席に座らせ、自分はナビシートへ入り込む。 「けどな、気づいたか?友哉君」 「え?」 「寝室にカメラ仕掛けられてるぞ」 「ええ?」  今度の声は戸叶だ。友哉は息を詰める。 「え…それって…」  行為を録画されて、多分だけど売られてるかもな、と佐伯がつづける。  友哉は呆然とした。 「佐藤も気づいてたみたいだから、姫木に伝えるだろ。2組続けて寝室使わねえのはおかしいって、金子が気づくかもしれねえから。伝えられてたらその前に行動ができるな。だったら安心だ」  佐伯の行こうか、の声でレクサスは静かに発進した。 「心配ですか?」  戸叶はチラッと佐伯を伺う。 「あいつだからな、別に心配はしてねえよ」  と言って窓を細く開け、タバコに火をつけた。 「佐藤もあの言葉で即座に反応したのは大したもんだ」  佐伯が佐藤を褒めると、戸叶も嬉しそうだ。 「俺らですから」  その言葉を発した戸叶の横顔を、佐伯は嬉しそうにみる。 「そのくらいできなくて、佐伯神楽と姫木譲のお付きなんてできませんよ」  自信に満ちた声と、顔つきに佐伯は頼もしさを感じ、その肩を一つ叩いて 「これからも頼んだわ」  とタバコを思い切り吸い込んだ。  それから数分間佐伯はゆっくりと一本のタバコを吸い、車内は静かだった。そしてタバコを灰皿で揉み消すと、 「これからの友哉君の事だけど」  と話を切り出した。 「姫木と佐藤が戻ったら、榊さんに連絡して明日にでも話をしようと思う」  一度名前を呼ばれて身を乗り出していた友哉だったが、そう言われてシートへと沈んだ。 「売りの事は黙っててやる。でも、賭場への出入りと借金のことはちゃんと自分で話しな」  友哉は後部座席から小さな声で「うん」 と一言返事をした。  自身とて、あの抗争の後に狙われてたことがあったのだから、少しは理解している。あの場で自分が高遠の幹部の息子だとバレなかったことは奇跡だと思うことにした。  たまたまじぶんを知る人物が居合わせなかっただけなのだ。  佐伯もいたずらに脅かすこともないなと思い黙っていたが、柳井は新浜に深い恨みをもっていて、その恨みを息子で晴らすことくらいはやりそうな組である。 「まあ、無事でよかったよな」  取り敢えず、友哉を柳井から離せてよかったと安堵はした。だが、これからのけじめの付け方を考えると、佐伯自身も久々に血が沸る思いがしていた。 「まあ、今日は解放感に満ち溢れなよ」  シートを倒して、後ろの席の友哉の頭をポンポンする。  それに少し笑って、友哉はこくりとうなづいた。  20時30分頃になって、戸叶の携帯が鳴った。  戸叶は出る前に佐藤だと告げ、電話に出る。 「やっぱ見つかったか、早かったなー」  今日は友哉のバイトも夕方終わりで、その終わって帰宅直後に佐伯たちが部屋へと入ったからその時点で18時半。そこで話をして、1時間後に部屋を出たのが大体19時40分くらいか。  そう考えていくと、見つかったのは本当に佐藤が入って15分もしないくらいなんじゃないか。と思うくらい早かった。自分達もまだ事務所についてもいない。 「え?タクシーが拾えない?なんで、そんなのいくらでも」  逃げ出したとなると、車移動ができないのは危険だ。  戸叶が運転中ということもあって、佐伯はスマホを受け取り姫木に変わるよう告げる。 「どうした?」 『どうもこうもねえ、とにかく乗り物での移動は無理だ。取り敢えず歌舞伎町まで歩くから迎えに来てくれ。トー横のガキに紛れとくわ』  歌舞伎町なら高遠の系列がシマ張ってるから安全と言えば安全だが 「いったい何があったんだよ。なんで車移動できねえの」  それに関して姫木はくればわかるとしか言わなくて、ついでに着替えを持ってこいとも言っている。  佐伯と戸叶はますます訳がわからなくて、取り敢えずどこかで反転して行ってみることにした。その際に自分達のマンションが近いからと寄って貰い、姫木と佐藤の着替えを持って歌舞伎町まで急いだ。  トー横で2人をピックアップして、5人は佐伯と姫木のマンションへと向かっていた。  マンションは渋谷、事務所は目黒。なので、通り過ぎて事務所へ行くことも無いし、通りすがりにおいて行ってもらえば一石二鳥。  しかしレクサスの中は異様な匂いで、後部座席の友哉は申し訳なさそうな顔をしながらも並んで座っている姫木と佐藤から身体を離し、ドアに懐くように端に寄っていた。  ナビシートで笑いを堪えている佐伯に 「いつまで笑ってんだよ。着替えたろう。しつこいぞ」  姫木は後ろから斜め向こうのナビシートを蹴りとばす。 「あんなとこにまさかゴミ集積所があるなんて思わないっすよね…」  佐藤が切なそうに呟いた。  ことの顛末はこうだったらしい。  あの後割とすぐに友哉が置いていったスマホが金子からの着信を知らせてきた。 「まだそんなに経ってないよな」  姫木もあまりに早い対応に少し動ける体勢を整えた。 「やっぱり、ベッド使ってないの見られてんすよ。2組続けてこんな感じだと、多少疑われるかもですよね」  佐伯が信じた通り、佐藤はしっかりと姫木にカメラのことは知らせている。 「だからってあそこに寝そべったところで、俺らバレるしな」 「ここから出ないと、すぐにでも金子きますよ」  今ならまだ玄関を出て非常階段を行ったとしても、見張りの1人くらいならぶっ倒して逃げられる。 「すぐ出よう」  こう言う決断は早い方がいい。2人は靴を履いて外を伺うこともなく飛び出し、まっすぐ非常階段へと走った。  非常階段への扉を開けると、案の定見張りが1人上へ向かう階段に座っていたがこいつは姫木の顔も佐藤の顔もわかっていない。 「ちわ〜っす」  住人のふりをして、佐藤が挨拶なんかをしてみたが、興味がなさそうにスマホに目を落とし何かのゲームに再び興じ始めた。  よし行ける。上がってくる金子と逆に下に行ったらすぐにタクシー捕まえるぞ。と小声で相談し、2人はこの場で走るのも怪しいのでゆっくりと階段を降り始める。  が、踊り場へ降りた瞬間にーどうしたんすか?ーさっきの見張りが後ろで非常階段のドアを開け部屋の方へ向かって話している声が聞こえた。 「来たな 行くぞ」  声を合図に再び2人は走り出し、3階から2階まで降りたところで下の踊り場から見上げる見張りと鉢合わせする。多分こいつも俺らの顔はわかっていないはず…と思ってみたが、こいつは佐藤が部屋へ上がるときにロビーにいたやつだった。佐藤の面が割れた。 「居ました!非常階段です!」  その男は上に向かって大声を出し、その声に呼応して 「クソが!」  と言う下品な声が帰ってきた。  姫木は舌打ちをしそのまま階段を走り降りると、高さを利用してその男の顎下を思い切り蹴り上げた。男は吹っ飛び踊り場の壁に上半身ごと叩きつけられたがそれでも姫木は容赦なく階段から飛び降り、踊り場で喉元と後頭部を押さえ苦しそうにしている男の体を襟首を掴んで引き摺りあげ、もう一発左顎脇に右フック。男は力なくその場に崩れ落ちた。 「行くぞ!」  その間数秒の出来事に目を奪われ、『やっぱ強えわ』と言う感慨は持たせてもらえぬまま走り出した佐藤の足に、もう失神していると思われた男が本能なのかしがみついてきた。 「うわっ」  と佐藤は咄嗟に踊り場の手すりにしがみついたが、意識がないのか訳のわからない動きの男は足を抱えたまま立ちあがろうとしている。  姫木が気づいてもう一発蹴りをと思い近づこうとした矢先に、 「うわわわっ」  佐藤の体が男に放り投げられ踊り場の向こうへ落ちていった。 「佐藤!」  手すりから外を覗くと、何かふわふわしたものの上に落ちたようで親指を立ててー平気っす!と声をあげる。まあ、落ちたといっても中二階だし、余程でなければ大怪我にはならない高さだ。姫木はゾンビ化した男の急所を踵で踏みつけてから、佐藤が落ちた所をもう一度見てみた。ちょうどマンションのフェンスの外側に位置していて、そこに落ちればそのまま脱出路も確保できそうだ。  上から金子の声もしてきて、時間もない 姫木はそこをルートに決め、佐藤に続いて踊り場から飛び降りた。飛んだ瞬間に、佐藤の 「うわっなんだこれ!くさっくっさっ」  という声が響いたがもう遅かった。  そこはご近所の焼肉屋専用の生ゴミ置き場で、きちんと袋に詰めて捨ててあったのだが佐藤が落ちてきた衝動で散乱し、卵の殻や発酵した野菜くず、何よりも悪い意味で熟成した生肉の塊が佐藤にまとわりついており、姫木もその中に落ちていったのだった。 「その後も、奴らの声がマンション中に聞こえてて、俺らはそこに10分くらい身を隠してなきゃなんなかったんだよ」  姫木が不貞腐れ気味に足をトントンさせながら、タバコよこせと佐伯に手を伸ばす。  腹筋がつりそうなほど笑っている佐伯は、 「お、おつかれさん」  笑い涙を拭きながら、姫木へタバコの箱を投げてやった。  佐藤1人のことなら戸叶も爆笑する所だが、姫木もとなると笑ってはいけないと必死で堪えている。  友哉に関しては匂いでやられているが、内容が内容だけに匂いカバーの手を口元にもずらし、込み上げる笑いを堪えていた。 「俺を担いだ男怖かったすね」  と言う佐藤に姫木もーあいつなぁーと思いおこして身震いした。 「打ちどころってやつが悪かったんすかねえ」  確かに最初の蹴りで、壁に後頭部を強か打ち付けてた気がする。 「あんなゾンビ確保してて、黒狼会恐るべし」  ー馬鹿言ってんなー  佐藤の言葉に佐伯は笑って受け流す。 「まあ、ともかく無事でよかった」  姫木と佐藤に身体を向けて 「ほんとお疲れ」  と労った。  マンションへ着くと、戸叶と佐藤は明日にでも車をクリーニングに出すと言って帰っていく。  その際友哉も預かると言ってくれたが、これ以上出歩かさない方がいいと言う判断で佐伯と姫木のマンションで預かることにした。  帰ってすぐに風呂を準備し、その間にウーバーで食事や飲み物を調達して腹ごしらえをした。考えてみたら、22時を回っている現在までずっと何も食べていなかった。 「やっとひと段落だな」  缶ビールを煽って佐伯はラグの上に仰向けに寝転んだ。  姫木は1人ならそうそう匂わないことに気付き、風呂を先にしたかったが腹も減っているのでアンダーウエア一枚で食事をし、そして数分前に丁度知らせが入った風呂に向かった。  2人の部屋は2LDKで、各々で一つずつ部屋を使っている。  リビングは簡素で、テレビとそれが乗っているテレビ台、それと今食事をしたローテーブルが硬いラグの上に置いてあり、壁際に長めのソファが2つ並んでいるだけだった。  LDなのでそこそこ広いのだが、あまりの簡素さに落ち着かない。 「なにもねえだろ」  佐伯がキョロキョロしている友哉に笑う。 「どうせ寝に帰るだけの部屋なんでな」  実際は、自分たちの命はいつ何時どこで消えるかなんて確証が無いからなのだが、そこまで友哉に伝える必要は無かった。 「疲れてないか?」  ペットボトルのコーラを飲んでぼんやりしている友哉に問う。 「今日は、バイトだけだったんでそんなには。ただ、あそこから抜けられて気持ちが楽になって、なんかほっとしてる、かな」  やったことは褒められ事では無かったが、友哉は友哉で1人で戦ってたんだよなと佐伯も思いなおした。 きっと親父さんの面子のことも考えたんだろう 「さっき聴いてただろうけど、榊さんに連絡したから。明日の13時に俺らの事務所に来るって言ってた。ちゃんと言えるか?ウリのことは言わなくてもいいから、あとのことは正直にな」 「うん…ありがとう」   友哉がどんな気持ちでいるのかは佐伯には判らないが、榊さんの気持ちも深く汲んでほしいと思う。  「眠くなったら、姫木の部屋…あっちな、で寝ていいから。そっちの方が綺麗だし」  タハっと笑って左のドアを指差した。  そんな話をしている間に、思いのほか早く姫木は戻った。 「湯、入れ替えたから友哉…君、入んな」  友哉がずっと思ってきたことなのだが、この2人が友哉「君」と言うのが言いづらそうなのである。 「あの…その前に、俺呼ぶ時呼び捨ててくれていいんで」 「いや、しかし友哉君は俺らの大先輩の…」 「わかった、じゃあ友哉。風呂入ってこい」  一応形として一言さあ、と傍でごちゃごちゃいう佐伯を押し退けて、タオルは脱衣所のとか話し始める姫木にもう一度友哉は 「風呂は、2人が来る前にシャワー浴びたんで。俺は今日は…」  そう言えば、部屋に入った時バスローブ着てたな…と思い起こし、ちょっと複雑な空気が流れる。 「じゃあ、俺が入ってくるな。友哉…は好きにしてな」  佐伯がじゃあね、と言ったような感じで浴室へ向かい、姫木は冷蔵庫から2つ缶ビールを持ち出して。一本を友哉に渡した。 「よかったな、脱出できて」  音を立てて缶を開け、そう言って少し掲げて姫木はビールを口にする。  友哉も、お祝いめいたその行為に反してはいけないとビールを開け、ゴクゴクと喉を鳴らした。 「あー気持ちよかった」  毎日バックに流している佐伯の髪が、タオルに煽られてバサバサと踊っている。 「少し伸びたな」  テーブルの前でビールを飲みながら、見るとはなしにテレビを見ながら姫木は言う。 「そう言う言葉はこっちみてから言えっての。で、友哉は?」  友哉の姿が見えなくて、姫木の部屋を親指で指し寝たのか?と無音で聞く。 「缶ビール半分で酔っ払ってた」  友哉がいた場所の缶を振って見せて、姫木が笑う。 「まじか。居酒屋でバイトしてるって言ってたよな」  佐伯も冷蔵庫から冷えたビールを持ち出して姫木の隣に座った。  居酒屋ではお客からは頂かないか。缶を開けて姫木の缶に当てて、佐伯は一気に半分ほど飲みあげた。  姫木は黙って、芸人が騒いで料理を作っているテレビを見つめている。 「お前も伸びたな、髪」  タオルドライやドライヤーをしなくても、姫木の髪はそれなりに落ち着く性質をしている。特に洒落た髪型ではないが、本人によく似合っている髪型ではあった。その髪を乾かす目的なのか、湯上がりはいつもフード付きの服を着込みフードを被って過ごすのが常だ。  前髪をつまんでみると、鬱陶しそうに手を払われる。  佐伯は面白がって、今度はフードを外して後ろ髪を伸ばしてみた。 「やっぱ伸びたよな。この件が片付いたらけーすけのとこ行こうか」  旧友の美容師の名前を言いながら、髪を触っていたはずの手はうなじを撫で、頬を撫で。 「何してんだ」 「ん〜?汚れ残ってないかなって」  指が髪をたくし上げ、耳たぶを撫でる頃に 「お前いい加減しつこい…」  と怒りモードに入りかけた姫木の頬へ手を当て唇を重ねる。  そのまま佐伯は首筋などの香りを嗅ぎ鼻をクンクンと鳴らす。 「匂いまでチェックしなくていい…隣に客いるんだから自重しろな」  姫木がそう言って体を離そうとすると、佐伯がニヤッと笑って 「なんだよ姫木。何考えてんだ?」  お前な…と諦めたような姫木の声に、賛同の色を感じて佐伯はそのまま姫木を押し倒した。  ここ暫くご無沙汰してるからなぁ、と首筋にキスをして服の下から手を入れ肌に触れる。 「ここで…か?」  四国あたりで作られたイタリア製のラグは織が固くて、以前もここでしたときに佐伯の膝がえらいことになったことがあった。 「俺の部屋行ったらそれこそお隣で…ってなっちまうしな。俺は別に友哉のベッドの下でやったっていいけど」  耳をかみながら言う佐伯をー馬鹿言うなーと引き剥がし、本格的に唇を合わせ両腕を佐伯へと回していった。  姫木の上で今まで激しかった佐伯の動きが止まる。  佐伯を受け止めた姫木も、出せない声に焦れて佐伯の腕を強く握りそれから深く息を吐いた。 「なあ…」  上から覗くように姫木に身を入れたままの佐伯が、乱れた息の中呼ぶ。 「…ん…?」  返事か吐息かわからない声をあげた姫木は、動きが止まった間にうっすらと目を開けた。 「明日、榊さんどうなるかな」  の事は言わないにしても、友哉が黒狼会の賭場で借金を作ったことは報告しなければならない。 「売りはともかく、どんな形にしろ、借金は正当なものだからな」  佐伯の微妙な振動に眉をひそめながら、息を吐くような声で姫木はそう言う。佐伯は姫木の中で既に力を戻していた。 「だよな…やっぱ踏み倒せねえもんなこればっかは…」  こんな時になんでこんな話を…と姫木は疑問だった。佐伯は姫木を腕に抱きながら、とある一つの覚悟をしなきゃかなと、漠然と思っていたのだ。それは歴戦の佐伯でもかなりの気力がいることで…。 「まあいっか、こんな話は明日いくらでも出来るし」  そう言って姫木へ唇を重ね、力の戻っている自身を奥へと突き立てた。  姫木の唇から思わず声が漏れたがそれは佐伯の唇によりかき消され、ずっと受け入れていた箇所は最初に佐伯が出したもので滑らかな抽送を許し、聴覚的に煽るような音を立てて姫木を感覚的にも攻め立てる。  再び襲う激しい動きに、声を出せないまま姫木は佐伯にしがみつき全身で受け入れる準備をした。

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