72 / 111
第73話 保育園からの帰り道 ①
「ねぇママ。今日ね、雫くんとパズルしたんだ。すっっごく楽しかった」
千景は繋いだ瑞稀の手を、ブンブンと振りながら歩く。
「千景は雫くんと、本当に仲良しだね」
知り合いもいない慣れない場所での新しい生活が始まってすぐ、千景は新しい保育園に入園した。
入園当初の千景は一日中泣いていて、『こんなに泣かせてまで、新しい場所で仕事するべきなのだろうか?』と瑞稀が悩んだ時期もあったが、今では保育園が大好きで、毎日笑顔で登園している。
「うん。ぼく、雫くん大好き」
満面の笑みを浮かべる千景を見ていると、怒涛のような一日の慌ただしさから解き放たれった気持ちになる。
「あのねあのね、雫くん、もうすぐ弟が生まれてお兄ちゃんになるんだって。ぼくもいつかお兄ちゃんになれる?」
「!」
千景の質問にはなんでも答えてきた瑞稀だが、この質問にはどう答えればいいか戸惑った。
「お兄ちゃんになるのってね、なりたいなって思っても、なれないこともあるんだよ」
「じゃあ、ぼくはなれないの?」
千景の顔が曇る。
「それは……」
瑞稀は答えられなかった。
今でも晴人を愛しているし、これから先もそれは変わらない。
晴人以外の人は考えられない。
だから瑞稀は誰とも番になるつもりはない。
千景をお兄ちゃんにしてあげることは、絶対にありえないのだ。
事実をどう千景に伝えたらいいかがわからない。
「ごめんね、千景……」
瑞稀は千景を抱きしめながら、そう言うしかなかった。
「僕にパパがいないから?」
え!?
頭が真っ白になる。
「アキくんもパパがいないから、赤ちゃんきてくれないって……」
アキくん。千景の一つ上の年長さん。
アキくんには歳の離れた兄がいて、その兄が話したのかも知れない。
「ねぇ、そうなの?」
千景を抱きしめる力が強くなる。
「ごねんね千景……ごめんね……」
何度も謝る声が涙声で震える。
「ママ、泣かないで……」
小さな千景の手が瑞稀の頭に触れる。
「いい子、いい子」
いつも瑞稀が千景にするように、千景は瑞稀の頭を撫でた。
涙が溢れ、止まることなく涙が溢れ頬を伝う。
晴人の前から姿を消してから、千景の前では泣かないと我慢してきた涙が、堰 を切ったように流れだし、止まり方を知らないかのように流れ続ける。
「ぅっ……ぅっ……」
抑えようとするが嗚咽が止まらない。
脳裏に姿を消す前の晴人の顔が浮かぶ。
笑顔だったり、困った顔だったり、すやすや眠る顔だったり。
5年ぶりに再開した時の顔も浮かんでくる。
副社長室で再開した時の驚きと憤りを感じた表情と、喫茶店であった時の優しい表情。
晴人と再開して、ずっと心の奥底に閉じ込めていた感情が溢れ出す。
もし晴人と一緒にどこか遠くに逃げて暮らす選択をしていたら……。
もし晴人に大きくなったお腹を撫でてもらえたら……。
もし千景が生まれた時、一番に千景を抱っこしてくれたら……。
千景の首が座り、寝返りがうてるようになって、お座りができて、立てたり歩けるようになったことを晴人と一緒に喜べたら……。
ありもしない、できもしない『もし』が心の底から溢れ出しそうになっては、全力で蓋をした。
見ないようにした。
気づかないふりをした。
自分のわがままを通したばかりに、周りを巻き込んでしまい、瑞稀はいつもどこかで晴人に、千景に謝っていた。
ーー!
ともだちにシェアしよう!