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第73話 保育園からの帰り道 ①

「ねぇママ。今日ね、雫くんとパズルしたんだ。すっっごく楽しかった」  千景は繋いだ瑞稀の手を、ブンブンと振りながら歩く。 「千景は雫くんと、本当に仲良しだね」  知り合いもいない慣れない場所での新しい生活が始まってすぐ、千景は新しい保育園に入園した。  入園当初の千景は一日中泣いていて、『こんなに泣かせてまで、新しい場所で仕事するべきなのだろうか?』と瑞稀が悩んだ時期もあったが、今では保育園が大好きで、毎日笑顔で登園している。 「うん。ぼく、雫くん大好き」  満面の笑みを浮かべる千景を見ていると、怒涛のような一日の慌ただしさから解き放たれった気持ちになる。 「あのねあのね、雫くん、もうすぐ弟が生まれてお兄ちゃんになるんだって。ぼくもいつかお兄ちゃんになれる?」 「!」  千景の質問にはなんでも答えてきた瑞稀だが、この質問にはどう答えればいいか戸惑った。 「お兄ちゃんになるのってね、なりたいなって思っても、なれないこともあるんだよ」 「じゃあ、ぼくはなれないの?」  千景の顔が曇る。 「それは……」  瑞稀は答えられなかった。  今でも晴人を愛しているし、これから先もそれは変わらない。  晴人以外の人は考えられない。  だから瑞稀は誰とも番になるつもりはない。  千景をお兄ちゃんにしてあげることは、絶対にありえないのだ。  事実をどう千景に伝えたらいいかがわからない。 「ごめんね、千景……」  瑞稀は千景を抱きしめながら、そう言うしかなかった。 「僕にパパがいないから?」 え!?  頭が真っ白になる。 「アキくんもパパがいないから、赤ちゃんきてくれないって……」  アキくん。千景の一つ上の年長さん。  アキくんには歳の離れた兄がいて、その兄が話したのかも知れない。 「ねぇ、そうなの?」  千景を抱きしめる力が強くなる。 「ごねんね千景……ごめんね……」  何度も謝る声が涙声で震える。 「ママ、泣かないで……」  小さな千景の手が瑞稀の頭に触れる。 「いい子、いい子」  いつも瑞稀が千景にするように、千景は瑞稀の頭を撫でた。  涙が溢れ、止まることなく涙が溢れ頬を伝う。  晴人の前から姿を消してから、千景の前では泣かないと我慢してきた涙が、(せき)を切ったように流れだし、止まり方を知らないかのように流れ続ける。 「ぅっ……ぅっ……」  抑えようとするが嗚咽が止まらない。  脳裏に姿を消す前の晴人の顔が浮かぶ。  笑顔だったり、困った顔だったり、すやすや眠る顔だったり。  5年ぶりに再開した時の顔も浮かんでくる。  副社長室で再開した時の驚きと憤りを感じた表情と、喫茶店であった時の優しい表情。  晴人と再開して、ずっと心の奥底に閉じ込めていた感情が溢れ出す。  もし晴人と一緒にどこか遠くに逃げて暮らす選択をしていたら……。  もし晴人に大きくなったお腹を撫でてもらえたら……。  もし千景が生まれた時、一番に千景を抱っこしてくれたら……。  千景の首が座り、寝返りがうてるようになって、お座りができて、立てたり歩けるようになったことを晴人と一緒に喜べたら……。  ありもしない、できもしない『もし』が心の底から溢れ出しそうになっては、全力で蓋をした。  見ないようにした。  気づかないふりをした。  自分のわがままを通したばかりに、周りを巻き込んでしまい、瑞稀はいつもどこかで晴人に、千景に謝っていた。 ーー!

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