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第74話 思い出のクッキー ①

 昨晩の雪は、朝方まで降っていた。  電車が遅れるかもと、瑞稀と千景はいつもより早く家を出た。  道路の水溜りに今朝は氷が張っていて、瑞稀と手を繋ぎならっら氷の上を慎重に滑りながら歩く千景は、とても楽しそうだった。 「ママ、お仕事頑張ってね」 「いってらっしゃい」  千景と保育士に見送られながら、瑞稀は職場に向かう。  晴人と同じビル。  今日も偶然会うかも知れない。  偶然会ってしまって、どう反応すればいいのかわからない。 挨拶だけしよう。 挨拶だけして、目を合わせず横を通りすぎよう。  そんなことを考えながらも、心のどこかで晴人と偶然にでも出会えることを期待してしまう自分は、虫が良すぎるとも思う。  電車は遅れることなく、いつも通りの時間に来たので、瑞稀はいつもより早く職場に着き、着替えをしてから用具室に行くと、もう幸恵と和子の姿があった。 「昨日は大丈夫だった?」 「怖い思いはしなかったかい?」  二人とも心配そうに瑞稀を声を掛け、用具室に置いてある長椅子に瑞稀を座らせ、二人は瑞稀の両サイドに座った。 「はい。山崎さんと話できました」 「嫌なことは言われなかった?」 「紳士的に対応してくださりました。山崎さんが千景の父親だということは、はじめから伝えるつもりはなかったので、伝えていません」 「そうなんだね」 「それから山崎さんと連絡先の交換をしました。ですがあれからは、まだ連絡はとってませんし、連絡は取り合わないと思います。幸恵さん、和子さん、お騒がせして、すみませんでした」  瑞稀は二人に頭を下げた。 「また困ったことがあったら、なんでも言うんだよ」 「仕事だって、私たち二人で回せるんだからね」 「ありがとうございます」  涙が込み上げてきそうになった。 こんな素敵な方々がそばにいてくれるなんて…。 おばあちゃん、僕は幸せ者です。  天国で瑞稀と千景のことを見守っているだろう祖母に、語りかけた。    仕事はいつもの時間に、いつも通り始まった。  役員室は、まだ役員が来ていない間に三人で済ませるのが、いつもの流れだ。  幸恵と和子は瑞稀を気遣い二人ですると提案したが、瑞稀は「仕事はきちんとしたいんです」と、普段通り三人ですることになった。  一部屋一部屋、テキパキと済ませていき、次は副社長室となった。  まだ朝も早いので、昴も晴人もいないだろうと思うが、部屋のドアをノックする手が、緊張で震える。 —トン トン トン—— ——………—— 返事はない。  ホッと一安心しながらも、 「失礼します」  ドアを開けると、部屋の中には電話中の晴人の姿が。 「!失礼しました」  静かに瑞稀が部屋を出ようとすると、晴人は『待って』と言うようにスマホを持っていない方の右手を、瑞稀の方に手を伸ばし手招きをする。  瑞稀は軽く頷くと、部屋のドアを閉め、その場で晴人の電話が終わるのを待った。 「それでは失礼します」  電話が終わると、晴人は嬉しそうに瑞稀に微笑みかけ、 「ちょっと待ってて」  室内にあるドアを開け隣の部屋に行くと、紙袋を持って出てきて、瑞稀の前に差し出した。 「これ……」  差し出された紙袋を瑞稀は、不思議そうに見る。 「まだ好きかどうかわからないけど、昨日、瑞稀がカフェオレ飲んでいて思い出したんだ。よかったらみんなで食べて」  さらにグイッと差し出された紙袋を、瑞稀は恐る恐る受け取り中を覗くと、そこにはカフェオレを飲む時、瑞稀が好んでよく食べていたチョコチップクッキーが入っていた。 僕の好きなクッキー。 もしかして、覚えていてくれたの?  瑞稀はパッと顔を上げた。 「今でも……そのクッキー、好きかい?」  自信なさげに晴人が言うと、 「はい……」  晴人と別れてからは食べていなかったクッキー。  でも瑞稀にとっては、特別なクッキー。 「よかったよ。もしもう好きじゃなくなってたら、どうしようかと思ってたんだよ。もしよかったら同僚の人たちと一緒に食べてくれると嬉しい」  口角が少し上がり目を細め笑い、ほっと胸を撫で下ろす晴人の仕草は昔のまま。 晴人さん……。  クッキーと共に晴人と一緒に飲んだカフェオレの香り。  そばにあった晴人の体温。  たわいもない話をして、笑い合った時間。  一気に晴人と一緒にいた、懐かしく幸せだった記憶が蘇り、心が温かくなる。

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