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第88話 翌日 ③
言ってしまおうか……。
今言わなかったら、この先本当のことを話す機会なんてないかもしれない……。
言ってしまおうか……。
晴人さん以上の人なんて、この世にいないと……。
そばにいて欲しいと。
そばにいたいと……。
言ってしまおうか……。
「あの、本当は……」
本当の気持ちを伝えようとした時、瑞稀は晴人の左頬が腫れ、口角に青あざがあるのに気づいた。
「晴人さん、ここどうされたんですか?」
瑞稀がそっと腫れている頬に触れると、晴人は痛みに顔を歪めた。
「誰かに殴られたんですか?」
「……いや、大丈夫だ」
咄嗟に晴人は掌を左頬に当て、腫れと青あざを隠す。
「本当は口の中も切れてるんじゃないんですか?」
瑞稀が手を伸ばすと、晴人はサッと身を後に引いた。
これは口の中、切れている。
絶対誰かに殴られたんっだ……。
どんなことがあっても話し合いで問題を解決し、絶対暴力を振るわない晴人さんを殴る人なんて、いるのだろうか……?
「瑞稀には関係ないことだ」
「そうかもしれませんが……」
でも気になる。
気になると言えば……。
「晴人さん、こんな時間に家にいても大丈夫なんですか?」
晴人の仕事は分刻みで進んでいる。
平日のこんな時間に自宅にいるのはおかしい。
「今日は大丈夫なんだ」
「何かあったんですか?」
「……。副社長に『今日は帰れと』と言われたから」
「え……? でも晴人さんは副社長の秘書だから、晴人さんがいないと仕事が進まないんじゃないですか?」
「ああ、そうなんだが、今日は帰れと…。瑞稀のことも心配してた」
「……」
昨日の朝、晴人が始業前に仕事を抜け出すことができたのは、昴の許可がいる。
そして昴は雫の叔父。
雫の家に千景がいることも知ることができる。
千景が雫の家にいると言うことは、瑞稀は迎えに行けない事情がある。
晴人は朝、仕事を抜けてから仕事に帰っていないとすれば、昴としては晴人に何があったのか聞くのは簡単に想像できる。
と言うことは、もしかして……。
「晴人さんを殴った人って、内藤さん なんですか……?」
そんなこと思い過ごしだろうと思いながら聞いたが、晴人の眉はピクリと動いた。
これは間違いない。
晴人さんを殴った人は内藤さん だ。
「瑞稀は副社長のことを『内藤さん』って、随分親しそうに呼ぶんだな……」
悲しそうに晴人は瑞稀を見る。
お別れ遠足の時、昴と一緒に動物園をまわり、色々な昴と出会ってから親近感が湧き、つい昴のことを『内藤さん』と言ってしまっただけだ。
「親しいだなんて、そんな……。副社長とは仕事でしか……」
「でも保育園であったお別れ遠足の時、先輩と一緒にまわったんだろ?」
「それは……」
「俺はダメで、先輩はいいんだろ?」
「! そんなつもりは……」
「もういいよ……」
「……」
「タクシー呼んでおくから、体が大丈夫になったら千景くん迎えに行ってやって」
そう言うと晴人は瑞稀を残し、寝室を後にした。
「ママ~」
早く千景に会いたくて体がなんとか動くようになってから薬を飲んだ瑞稀は、一人で千景を迎えに保育園に向かった。
「千景ただいま。先生ありがとうございました」
「いいえ。お母さんご無理なさらないでくださいね」
「はい、ありがとうございました。千景帰ろうか」
瑞稀が千景の手を握ると、保育園を後にした。
「昨日は雫くんのママやパパの言うことをちゃんと聞いてた?いい子にできた?」
いつもより早お迎えだった千景は大喜びで、瑞稀と繋いだ手をぶんぶん振る。
「うん。いい子にしてたよ。雫くんのママにも褒められちゃった。それにね、一緒にご飯食べて、お風呂に入って、絵本を読んでもらって、雫くんのベッドで一緒に寝たの。朝はね、こ~んなに大きなホットケーキにクリームと果物たくさん食べたんだよ」
千景は身振り手振りをいれながら、昨日、楽しかった思い出を笑顔で話す。
「そう。それは楽しかったね」
きちんと雫くんの親御さんにお礼を言わないと。
「ねぇママ。今度は雫くん、僕のお家によんでもいい?」
千景が瑞稀の様子を伺う。
千景と二人で暮らしの小さい間取りのアパート。
そこに雫くんとお母さんを招待してしまってもいいのだろうか?
ふとそんなことが頭をよぎるが、雫は千景にとって大切な友達。
千景だって、自分の家に遊びにきてもらいたいと思うのも自然なことかもしれない。
「そうだね。ご招待しよっか」
瑞稀が言うと、千景の顔がパーっと明るくなる。
「じゃあ昴くんも呼ぼう」
「え?」
「だって、昴くんは僕たちの友達だもん」
「え?」
「僕、雫くんも昴くんも大好きだよ」
「……」
ああ、ダメだ……。
心の中で呟いた。
このままではダメだ……。
このままでは僕だけでなく、千景は副社長とも関係ができてしまう。
そうなってしまうともう、僕だけの問題で無くなってしまう。
今より二人との関係が親密になってしまうと、別れる時千景を傷つけてしまう。
僕が何もしないばっかりに、みんなを傷つけてしまう。
でも今ならまだ間に合うかもしれない。
瑞稀は確信した。
このままずるずると晴人と昴と一緒にいることはできないと。
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