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その夜の食事はミハルが望んだ通りの魚料理だ。「俺は肉派だ」などと言っていたライニールも、結局ペロリと綺麗に平らげていた。 「魚もたまには良いでしょう?」  丸テーブルの向かいで得意げに言ったミハルに、ライニールはフンと鼻を鳴らした。 「骨のない魚だったからな」  相変わらず美味いとは素直に言わないライニールにミハルは口元で小さく笑いをこぼした。 「骨のない魚なんてあるわけないでしょ」 「あ?」 「下処理で小骨も抜いたんですよ。ライニール様、やはり骨があるから魚料理を好まなかったんです?」 「チッ……昔、喉に刺さったんだ……」 「ほう、それは……お辛かったですねえ」 「チッ、クソが」 ライニールを前にすると、ミハルの感情の多くは抑え込んだ本能的な恐怖が埋め尽くす。しかし、この頃は体の大きな子供でも相手にしているような気分になることも多く、それはミハルにとって穏やかな感情で、悪い物ではない。 「そうだライニール様、お部屋に戻られる前にちょっと良いです?」  食事を終えて席を立とうとしたライニールをミハルは呼び止めた。椅子から半分腰を浮かせていたライニールは「あ?」と眉を上げてまた椅子に座り直す。ミハルはそのライニールの対応を確かめてから、テーブルの上の空になった皿を脇に寄せた。 「これの使い方、教えていただけません?」 「ブホッ」  ライニールはグラスに口をつけて傾けていたが、ミハルがテーブルに置いた物を見た途端突然口に含んだ水を吹き出した。 「汚いですねえ」 「てめえ、クソ兎。これどうしたんだ」  ライニールは眉を寄せて、ミハルがテーブルに置いたオレンジとピンクの玉を指差した。ミハルはライニールが吹き出した水を布巾でいそいそと拭いている。 「頂いたんですよ、ライニール様のお顔が怖いせいで使い方を教えてもらえなかったんで、責任とって教えてください」  ミハルの言葉にライニールは「昼間の狐か」と口元で呟き舌を鳴らした。 「ライニール様、オレンジのを沢山お待ちだったでしょう? オレンジはお薬のような使い方をされる方が多いと聞きましたよ。やはり飲み込むんですか?」 「……まあ、そうだ」  この玉は人が吐き出した物だ。自身も青い玉を吐き出すミハルは、人が吐いた玉を誰かがまた飲み込むとはなんとも珍妙な行為だと思った。  しかし狐の男の言葉を思い出す。オレンジの玉は心の病を治療したい者や、気疲れしている者が求めると言っていた。引き篭もりの英雄ライニール・クライグはやはり未だに戦争の記憶と恋人を失ったことでの心の傷が癒えず、オレンジ色の誰かの記憶を求めていると言うことなのだろうか。 「ライニール様、こちらはあなたに差し上げます」  ミハルはそう言ってオレンジ色の玉を指先でツンと突いてみせた。それは少しだけライニールの方へと転がった。ライニールは何も言わないまま、その微かな輝きに視線を落としている。 「それで、こちらなんですが。なんでも、人と一緒に使うのがいいとか」  今度ミハルはピンクの玉を指差した。ライニールはその指先を追い、少し呆れたように鼻から息を吐く。 「お前、それが何かわかってんのか」 「はて。青が恐怖で、オレンジが楽しい記憶と聞きましたんで、うーんと、そうですねえ、オレンジよりもっと楽しい記憶でしょうか?」 「ちげえ」 「はて」  ライニールは顔を上げ腕を組み、背もたれに体を預けるように座り直した。木製の椅子がギイと悲鳴をあげている。 「それは性的な快楽に関する記憶だ。誘引剤とか媚薬とか、そんな類のものとして使われる」 「ああ、なるほど。だから人と一緒に使うんですねえ」  ミハルが言うと、ライニールはまた舌を鳴らした。 「呑気なやつだな、てめえはあの狐に拐かされそうになってたってことだぞ」 「はあ、なるほど」 「なるほどじゃねえだろ、クソが」 「これって、そんなに効果があるものなんです?」  ミハルはそのピンクの玉を摘まみ上げた。遠目に見ればただのガラス玉だが、他の色のものと同様に中で何かが蠢いている。ただの無機物ならざる気配は、ミハルでも感じ取れた。 「まあ、多少同調はするし、気分が高揚するらしいが、気休め程度で違法に出回ってる薬物ほどじゃねえ。夫婦やカップルがマンネリ防止で使うんだ」 「ほう、なるほど」 「だが、それは普通のやつの場合の話だ。お前みたいな烙印待ちのヤツが飲み込んだら過剰に」 「……(ゴックン)……えっ?」 「あ?」  ミハルの指先には、もうピンクの玉の姿はない。ミハルとライニールはしばし視線を合わせ、お互いにぱちぱちと二度瞬きをするという、妙な時間が流れた。 「飲んじゃいました」 「飲んじゃいましたじゃねえ! ふざけんなクソ兎!」 「だって、ライニール様が気休め程度だって言うから」 「人の話を最後まで聞けよ、クソが!」 「吐けますかね? おぇ、おぇぇ……ああ、ダメです……お夕飯のお魚の方が出てきそうです」 「クソが!」  ライニールはガタリと椅子から立ち上がると、ミハルの体を抱え上げた。ミハルはライニールを子供のようだと思っているが、今は大きな体に抱え上げられたミハルの方が子供のようだ。バランスを崩して落ちないように咄嗟にライニールの肩にしがみついた。 「ああ、ライニール様! そんなに乱暴に持ち上げたら、お魚が出てきてしまいます!」 「うるせえ、黙れ、クソ兎!」  追蹤玉を使うと記憶の追体験ができると狐の男は言っていたが、その言葉だけでは説明がつかない感覚がミハルの中で起こっていた。  それは人の記憶を覗き見るのとは少し違う感覚だ。記憶よりも感情に訴えかけてくる。だけど、自分の感情ではないことはどこか頭の隅で理解していて、どちらかと言うと追蹤玉に自分の感情が同調している、と表現する方がしっくりくるなとミハルは思った。 「ライニール様、これは貴重な体験かもしれません」 「そうかよ、クソが」  ライニールはミハルの体を抱え上げたまま、部屋の戸を開け廊下へと出た。その足は城の東側へと向かっている。 「すごい……効果ですね……確かにちょっとそう言う気分になってきました」 「黙れクソ兎……クソッ……匂うな……」 「え、俺臭いです? ちゃんとお風呂に入ってるし、服も毎日着替えて」 「ちげえよ、うるせえな黙れ」 「ああ、ライニール様、もうちょっと優しく歩いてください。舌を噛みそうです」 「ペラペラ喋ってるからだろうが!」  ついに東の端のミハルの部屋に辿り着き、ライニールはその戸を乱暴に開けると、ミハルの体をベッドの上に放り投げた。 「わぶっ!」  ベッドは柔らかいものの、咄嗟に受け身を取り損ねたミハルは、顔面を枕に埋めて声を上げた。 「中から鍵閉めろ! 外からも閉めるからな! まともになるまでこっから出んじゃねえぞ!」  そのライニールの声にミハルは顔を上げだが、それと同時に部屋の戸がばたり閉まり、宣言通り扉の外でガチャガチャと鍵を閉める音が鳴る。ミハルは縋るように床に膝をついて扉に手のひらと耳を押し付けた。 「ああ、そんな! ライニール様!」 「まともになるまでの間だけだ! 我慢しろクソ兎!」 「洗い物……洗い物がまだです!」 「あ?」 「せめてお水につけておいてください! 汚れが落ちにくくなります!」 「チッ、クソが‼︎」  承諾の意かはわからないが、ライニールはそう吐き捨てると戸の向こうの足音はバタバタと遠のいていった。

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