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一人の夜と、二人の朝。(1/2)
文字が追えなくなり、俺は手元の本から顔を上げた。
いつの間にか日が落ちた部屋は、暗く、不気味なほどに静かだ。
そうか。今日は俺一人だったな。
いつもなら、暗くなる前にレイが明かりをつけてくれる。
俺が本に夢中の時、レイはいつも夕飯の支度をして俺を待っていた。
栞を挟んで本を閉じると、レイの声が耳に蘇る。
『なぁルス〜、そろそろ飯にしよ〜ぜ〜? もう俺腹ペコだよ〜』
どれほど待ったのか、腹をぐーぐー鳴らしながら、拗ねたような声で俺を誘うレイ。
そんなに辛くなるまで待たずとも、飯の支度ができたなら、さっさと声をかければいいものを。
あんなに人目を惹く派手な外見をしていながら、何がどうして、こうもいじらしいのか。
俺が夕食の当番でも、レイが黙って気を利かせてしまうので、今年から休日の夕食はレイの当番にして、俺は平日に多めに作らせてもらう事にしたほどだ。
「いつだって遠慮なく声をかけてくれ」と何度伝えても「ん、だよな。分かってんだけどさ。ごめん。……ルスが真剣に読んでるからさ、つい、邪魔したくねーなって……」とレイは申し訳なさそうに謝る。
どう見ても悪いのは俺のはずだが、レイは微塵もそう思っていないらしい。
そんな生活が、いつの間に日常になっていたのか。
明かりをつけても、レイのいない部屋はどこか薄暗く、寒々しく感じる。
時計を見れば、夕食の時間はとうに過ぎていた。
あいつは今頃、親族と会食の最中だろう。
年頃に育った姪っ子達に囲まれて、サービスたっぷりに軽口を叩くレイの無邪気な笑みが目に浮かぶ。
輝く金の髪に、青く澄んだ瞳。姪っ子達は叔父だと分かっていても目を奪われてしまうだろう。
あんなに美しい男は、そういるものではない。
俺は、ぼんやりと昨日のレイの言葉を思い返した。
「付き合いでけっこー酒飲まされるだろーしなぁ。俺、明日は実家に泊まって、明後日帰るんでいいか?」
……あの時俺がもし、遅くても構わないと、何時でもいいから帰って来てほしいなんて言ったら、レイはどんな顔をしただろうか。
多分あいつは驚いた顔をして、そして、どれほど酔っていてもここに帰ろうとするだろう。
酒にあまり強くないあいつの足取りを思うと、そんな事は言えなかった。
俺の脚がこうでなければ、これまでのように酔ったあいつを支えて帰ってこれたんだが、な……。
俺は、ひやりと冷たい杖をついて立ち上がる。
いつまでもぼんやりしていては、夜中になってしまいそうだ。
早いところ夕飯を済ませてしまおう。
キッチンのコンロには小鍋がひとつ。
そこには、レイが留守番の俺を気遣って作ってくれたスープが入っている。
それを温め直しながら、紙袋に包まれていたパンを木皿に出す。
これは……、俺の好きなパン屋のパンじゃないか。
家からは距離があるというのに、あいつは俺のためにわざわざ朝から買いに行ったのか。
ほんの一晩の留守番くらいで、こんなに気を遣うこともないだろうに。
そう思いながらも、俺の胸には確かな喜びが滲む。
それと同時に、今すぐあいつを抱き締めたいという欲求も。
レイは本当に、いつだって俺を大切にしてくれる。
それは時に申し訳なくなるほどに、もう十分だと思うほどに、大きな愛だった。
俺の心の底にある大穴も、いつかあいつの愛で埋まる日が来るのかも知れないな。
そんな風に思った瞬間、夕陽に照らされた彼女の微笑みが胸を掠めた。
そうだ。
そう思った事が、以前にもあった。
あの日は休暇を取って、朝から家族で出かけていた。
遊び疲れて寝てしまった幼い息子を抱いたまま、妻と並んで橋から見た夕焼けは、いつもより温かな色をしていた。
「綺麗な夕日ね」と妻が幸せそうに笑う。
俺は「そうだな」と答えて、この幸せを守り続けようと、強く誓った。
今の自分なら、きっと守れると思っていた。
幼い頃の、何も出来ずに村を失った自分とは違うと。
中隊を率いるだけの実力をつけた自分と、王都をぐるりと囲う城壁があれば、妻子を守る事が出来ると思っていた。
けれど、蟻は地中から王都へ侵入した。
俺は、間に合わなかった。
ただただ、自身の力不足と不運を呪うしかなかった。
「――っ」
不意に杖をついているはずの足元が揺らぐ。
いや、揺らいだのは俺の心か……。
ぐらつく心に呑まれないよう、かぶりを振って顔を上げる。
視界に入るいつもの部屋。
そこにレイの姿が無いだけで、こんなにも喪失感が膨れ上がるのか。
「……これはマズイな」
一刻も早く夕飯を済ませて、さっさと寝た方がいい。
余計な事を考えてしまう前に。
俺は頭を使わないように努めつつ、スープを器に注ぐ。
気付いてしまったら、終わりだ。
それに気付いてしまったら、レイを失う不安と焦燥感に、俺は息すらできなくなるだろう。
いつだって、一番大切なものは突然消えてしまう。
そんなことはない。
今回は違う。
レイは彼女達とは違う。
あいつは一人でも戦える。
あいつは強いんだ。
だから、そんなはずはない。
そうやって、何度理性が言い聞かせても、俺の心はそれを信じきれない。
仕方がないのだろう。
これが、人生で大切なものを失い続けた俺の、経験則だ。
親も、故郷も。
妻も、息子も……。
大切なものは全て、この手からこぼれ落ちてゆく。
家族で暮らす者が大勢いるなかで、どうして自分だけが許されないのか。
どうすれば、それを避けられたのか。
何度問いかけても答えは見つからないままだ。
だから俺は今も、どうしたらそれが回避できるのか、分からないままだった。
『それなら、今頃レイが、俺の見てない場所でどうなっているか分からないだろう?』
そう言って怯える臆病な自分に、反論できる言葉を俺は持っていなかった。
昔から、健康で頑丈なだけが取り柄だった。
だが今はそれすら失った。
動かない足を抱えた自分が、レイの荷物になる事も度々あった。
俺はため息を堪えながら椅子にかけると、スープを口に運ぶ。
あいつの作り置いたスープは、やはり俺の好みの味をしていた。
……レイが愛しい。
俺を求めてくれるあいつを、失いたくない。
俺にもう一度、帰る場所をくれた。
かけがえのない存在……。
だからこそ、一瞬でも離れてしまうのが怖い。
大切だと思えば思うほど、失う事が怖くてたまらなくなる。
俺は、詰まりそうな息を堪えながら、夕食を強引に流し込む。
後片付けは明日だ。
これ以上は、もう持たない。
俺は寝室に向かうと、杖をかけるのもそこそこにベッドに潜り込む。
レイの枕を抱き寄せれば、馴染んだ匂いがした。
安心感より早く、それを失う事への恐怖が胸を裂く。
「っ、レイ……」
俺は、レイのいない部屋から逃げるように、強く目を閉じた。
眼裏に、レイの明るい金髪が映る。
俺をうっとりと見つめる、宝石のような青い瞳。
俺がレイの幻に僅かに安堵した途端、それは赤く染まった。
俺は、あいつがどうやって痛みに耐えるのか、よく知っていた。
どれほどの苦痛に襲われても、あいつが俺の前で泣き叫ぶ事はない。
俺が抱き上げれば、血塗れのレイは荒い息を健気に堪えて、滲んだ青い瞳に俺を映す。
俺に心配をかけまいとしてか、レイは最後の力を振り絞って、俺に力なく微笑んで……。
そのまま、俺の腕の中で事切れた。
俺は叫びと共に目を見開いた。
動揺が心臓を激しく叩く。
落ち着け。馬鹿なことを考えるな。
レイは必ず戻ってくる。
俺より先に死なないと、あいつは誓った。
明日になれば、いつも通りのあいつが部屋に戻ってくる。
そうであってくれと、心の底からひたすら願う。
どれだけ耳を澄ましても、王都の夜は静かで、騒ぎが起きる気配もない。
あいつの無事を祈る他に、今の俺にできることはない。
だから、今夜はとにかくレイの無事を祈って眠ろう。
不安や焦燥は今はどうしようもない。
俺は喪失感に包まれたまま、奥歯を噛み締めて目を閉じる。
レイの可愛い姿だけを、懸命に思い浮かべながら……。
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