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奪うじゃない、かおり *

 視界や知覚のなかに、さまざまな粒子が、一瞬にして押し寄せたような気がする。  まず、両の瞳で捉えたつもりでいた世界は、翳った。  翳って、すべての輪郭は曖昧だ。  そして、匂い。これが一番、僕の器官のおおよそで感知され、ふるえる間もなく塞いで占められた。  この匂い。  いつだったか、すれ違って、初めて知った、 大人のような(あで)と品格で醸成されて、甘くて、苦い切なさのようなものが後を引く、あの匂い。  その匂いが、奪ってきた、訳じゃなかった。  僕のことを奪いに来た訳じゃない。  むしろ、抱擁されたのではないかと錯覚するくらい、その匂いは嫌悪を残さなくて、 陶酔に似た、感覚を狂わせるような浮遊感のなかに僕はいる。  遮られた陽光。  艶のある黒髪が視界のどこかで揺れている。  顔のなかの一点だけに、生温い感触が、掬うように優しくうごめいているような気がする。  色々な感覚が、欠片(パーツ)みたいに降り注いできて、さえも夢の中のように現実味(リアルさ)が薄れている心地だ。  でも、感じる。  やっぱり"これ"も、 僕を奪いに来ている訳じゃない。 ——…………苦い……、  差していた陰が引いた。絡めとるような匂いも、ゆっくり解き放つように離れていく。  瞳はずっと開けていたから、ごく傍で、視線は一瞬繋がれたような気もしたが、置き去りにされたかのように遠のいていく。  落ちる間際の斜陽は、強い黄の刃を放つらしい。  それを背に、濃灰と荒い朱の陰に覆われたその貌は、あくまでも酷薄で、  何の感慨も浮かんでいない、表情で見降ろしていた。  ……くちづけというものは、もっと、数えるくらいしか知らないけれど、 恥じらいとか、いとしさとか、怯えと昂揚がない交ぜになった緊張や、欲しいという隠れたあつい澱みだとか、 そういったものを、感じるものだと思っていたが、 さっきのは、そういったものが、全く感じられない触れ合いだった。  僕に何の情感も抱いていない、冷めたくちびる。  醒めるように感覚が徐ろに呼び込まれていく。  気づいて、おそれるように見上げたままでいたら、それを受け止める筈もない、冷え切った眼のいろにぶつかった。 「あいつのことを散々味わってる口だよ。有難く思いな」  答えられる訳もなく、ただ、その僅かにほそめられた眼を見上げている。  今更になって、何かを飲み込むように微かに喉が動いて、乾いた筈だった汗が、焦りを生じたように温度を含んでいく。  眼の前の彼の、心底うんざりしたように、形の()い眉が顰められた。 「少しは避けろよ。まさか、そっちの気があるのか」  だったら、もう少しましな反応をしたらどうだよ。  薄い舌打ちとともに吐き捨てられた言葉も、辛辣さは響いてこない。  だって。どうして。  急速に心臓の張り詰めが増していく。  追い縋るように状況を認識として頭で当て嵌めようとするが、導かれる『現実』に、ただただ混乱するばかりの鼓動と思念は防ぎようがない筈なんだ。  自分でも驚くほど理解と反応が遅い。解ってる。だけど、  梗介に口づけられた。  それに気付くまで、こんなにも時間と認識が掛かっている。

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