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動かない腕 *

 何故。どうして。  その問いすらも、浮かばずにただ唖然とした表情を向けるばかりだったのだと思う。    見上げる僕の瞳には、大半を占めるその混乱の陰に、だけど正直な狼狽えが、きっと揺らめいていた。  遅れてきた羞恥。不可解と困惑。そして隠しきれない、——朧いだ(おそ)れ。  それを容易く認めた梗介は、冷然とした貌のなかで、唇と下瞼に僅かに開くような緩みを見せた。 「その表情(かお)は、悪くはないぜ」  実際は判らない。だが、にじり寄られたような感覚が迫って、僕の上体は微かにびくりと後退した。  梗介は、きっと動いていなかった。静かに冷笑するような口許は、憐憫に似た柔らかさえ見えた気がする。 「得体の知れない奴を前にする時は、背後に気をつけておくもんだぜ。——坊ちゃん」  示されて、思わず後ろを振り返ってしまった。  何もない。ただ、塔屋の壁だけだ。  しまった。出入り口は遠い。  退路を断たれた、  そう思って振り返る前から、僕の手頸は、僅かに上がっていたのだと思う。  あの匂いが、また背後に迫って来た、と嗅覚が騒めいた瞬間から、吊られるような痛みが、僕の手頸から上空に向かって突き抜け、もう片方の腕も、同じような痛みがたちまちに追って来た。  振り返れば、あの匂い、迫ってくるような梗介のシルエット、それが背中と後頭でがん、と固い壁面に打ち付けられた衝撃で、火花みたいに霧散しそうになる。  瞳は、一瞬閉じてしまったのかも知れない。  手頸から肩にかけて、捻れるような、身体が拒否する感覚が太い針金みたいに通されている。  両の手頸に、物凄い力の輪で括り付けられているような感覚を認めた。  冷たい無機質な壁の温度を背に感じる。  怖れるように目線を上げたら、あの痺れるような芳香を漂わせながら、梗介の貌が、上から地を這う蟻を眺めるような眼で、無感動に僕のことを見降ろしていた。 「……っ……」    何かを発する前に、絡まるような香りと、形の美しい梗介の唇が降りてくるような気配が感じられて、思わず僕は硬直した。  また。  学習した僕の身体が、あの感触を反芻しそうになる。  その予期が裏切られたかのように、梗介の唇は僕の頬を避け、耳の下の首許へ、溜息のような冷笑を漏らした。 「…………残念だな。もう口は吸ってやらねえよ。 誰が好き好んで男の口なんざ吸わなきゃならねえんだ」  そう毒づくのに、首許の梗介の唇は、触れるか触れないかの距離で吐息のような熱を僕に撫でかけ、それが肌にひどく落ち着かない感触をもたらしていた。 「……先輩、待っ……、離して下さい……っ」 「待つ? そんな余裕、あるのかよ。が欲しくて、居ても立っても居られなくて」  ここに来たんだろ。  耳の下の低音が、口づけるような言葉を転がし、僕の芯が、酩酊するような響きに慄いてふるえた。    この人の声、何だ。  口づけられてはいない。  触れてもいないのに、その低い(こえ)は、切ない香りも相待って、僕のの奥に知らずに侵入してきて、いまだかつて()ることのない、この甘い匂いのような惑乱に満ちたで、 を引き摺り出し、逃れられない濃い蜜のような覆いで塗り尽くしてしまうようで、おそろしかった。  逃れなければ。本能的な忌避感から、僕は頭上で拘束された腕を動かそうとする。  今更になって、いつの間にか両の腕は梗介にひとまとめに絡げられ、頭上に固定されていることを認識する。 「…………っ……!」  力を込めて、絶望的な感覚に捕われる。 ——…………動かない……!  これでも男だ、一応。  だけど力を込めれば込めれるほど、その力は吸い尽くされるようで、確かに腕は捻られていて力の作用が正常に働かない。だけどそれにしても僕を掴むその力は圧倒的に頑強で、人の動きを奪う要所を識っているのか、空しく力を吸われて反動で痛みに腕を震わせるだけなのだ。  脚も、幹のように強固な長い脚に踏み込まれていて、悶えるようにもどかしく捻ることしか出来ない。  徒労に打ち拉がれるような心地で目の前を見る。  力の均衡でがくがく震える腕の狭間で、いつの間にか瞳の前に在る、片掌一つで、僕の両腕を押さえつける梗介は、何一つ力を加えていない無風の貌で、一切その眼の色を変えていない。  これは、何度もそうやってそのちからで人を屈服して、征服してきた者の貌だ。  歴然としたあらゆる力の差に、(しん)が冷えるように汗が伝う。 「先ぱ……っ……!」  それでも、あらん限りの力を込めて僕は無謀な抗いを続けようとした。  宥めるようにふわりとまたあの香りが降りて来て、頬の横を掠めていく。 「ユキのことが、知りたいんだろ?」  静かなのにその聲は、僕の耳朶(じだ)へ、確実に落ち着かなくさせる響きを低くふるわせる。

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