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慈善 *

 柚弥(ゆきや)の名前を聞いて、僕の抗いは確かに力を抜いた。  そこへ忍び込むように、耳を包むような、吐息から、梗介の唇がごく傍で開かれたことが感じられた。  挟まれる。耳を。唇のかたちが、わかってしまうほどに。  そして梗介も、僕の耳のかたちを辿るように、上の耳の輪から、下の膨らみまで、 何かを囁きかけるようにして、僕の耳を、焦れた熱をなすりつけるように、順々に蹂躙していくのだ。  まるで、口づけるように。    口づけ。  さっきまでは、触れていなかった。  その梗介の唇の熱を、捻れるようなじれったさで、直接耳に、彼の唇の輪郭をもって、触覚に塗り込まれているのだ。  優しい。さっきみたいに。  思いの外、決して奪われている惨めさを感じさせずに、ひどく優しいのだ。  口づけ。  先ほどの、訳が判らないまま塞がれていた自分の唇まで思い出されて、  あの時の、舌に乗せられた生温い感触、それをまだ(そこ)に感じていない、それを期待してしまっているのかと、自分の得体の知れない情動がおそろしくて、 僕は身悶えるように声を上げた。 「先ぱっ……!」  自分の拗られた腕が邪魔で、背けようにも、顔は中途半端な芋虫のような(もが)きにしかならない。 「先ぱ、お願いだから……!」 「ああ……?」 「口……っ、お願いです、お願いですから、退けて下さい……、 あと、そこで喋るの、やめて下さい……っ」 「(ここ)が感じるのかよ」  さっきから、もう知ってる。と嗤うような冷めた息が触れる。  耳を()んでいた唇が開かれて、その中の熱を、感じられるのかと、思いがけずきっと予期していた。  それなのに、もう飽きた、と言わんばかりにその唇は耳から温もりを離した。  安堵と落胆。呆れるけど後者をも感じて力が抜けた瞬間、またびくりとこもる。  ねっとりと、きっと覚えがある、妖しい(ひる)のような感触が首筋にぬめるように置かれた。  待っていた。きっとそれを。  そんなもの、本当は(のぞ)んでなんかいたくないのに。  蛭、というか獰猛なのに静謐であやうい(けもの)に、味を確かめられているようだった。  耳の下から頸筋にかけて、その舌の(ぬめ)りを確かに感じる、だけど決して浅ましさを思わせない、焦れるような密着を保ちながら、滑っていくのだ。  唇を開いて肉食獣のように舌を伸ばしている横貌は、きっと猥で美しい。  そんなところを、そんな風に舐められたことがあったか。  鋭敏になった触覚が伝播して、違うところも舐められているような、訳の判らない狂いと疼きがおこって、 押さえつけられている腕が、抗いと、身悶えへの混乱で、咥えられた弱者のように不規則な無様さで脈打つ。 「先、輩……っ……」  隠せずに、情けない声が滲み出ていた。  鎖骨で止まった黒髪の陰に、梗介の耳が見え、風のように漏れた溜め息に、それにすらふるえていた。 「……恐ろしいほど、何も湧いてこねえな。 半端に悶えるのはやめろ。現実を思い出して嘆きたくなる。 いっそ徹底的にマグロでいろ。多分その方がましだ」  首許の梗介が顔を上げ、辟易と歪められた眼許が伏され、また溜め息を零していた。 「当たり前だろ。そもそも俺にそっちの趣味はねえよ。どいつこいつも、男の(ケツ)までご入用とは、まあ高尚で、恐れ入る」  じゃあ何故こんなことを。そして柚弥とは。  あらゆる疑問や混乱をきっと投げかけていた。  眼はあまり見えていなかった。薄く凍えた月みたいに上がった口角が、ひときわ瞳に焼きついたからだ。 「は俺専属の特殊な肉便器だよ。 あまりにも需要が暴騰してるもんで、公衆にして分け与えてやってる。 慈善だろ?」  解ってる。盛っている。僕を煽るために。  それで血が昇る僕も相変わらずだった。  梗介の押さえつけていた手頸が、最も押し戻された。  だけど直ぐに壁面に荒く縫いつけられて、情けなくなる。 「まだ威勢は残ってるな。それ、の協力に使え。……申し訳ねえが、勃つ自信がまるでないからな」 「先輩、どうして……っ……」 「うるせえな。本当の柚弥君も、あっちの柚弥君も欲しい。自分の欲張りに大混乱の僕は、とにかく柚弥君のことが知りたい。 それならまずは、から、て言うだろ。 あいつだったら、股開いて腰(なす)りつけて、既にどこかがびしょ濡れだよ。覚えとけ」 「……っ」 「その熱意にあまりにも感銘を受けたんで、及ばずながら、俺も協力してやろうかと発起したんだよ。……あれの発起が、追いついてねえけどな。 これも慈善だよ。あっちも慈善、こっちも慈善。俺の涙ぐましい慈悲深さも、いい加減認められて欲しいもんだぜ」  まるで熱のない賞賛を繰っていたから、どこかに隙はないかと僕は窺っていた。  それでも侵食されていたのは僕のほうで、いつの間にベルトから抜かれていたシャツの中に、気配もなく梗介の指は侵入していた。

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