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「泊まる」

 柚弥の拳が向かってくることは、梗介はきっと、瞬時に察知していた。  虚をつかれたようにその眼が僅かに開かれたが、確実に柚弥の拳を捉えて、 だが防御や躱す素振りは見られず、間に合わなかったのか、あえて受ける姿勢を選んだのか、その頬が引き締められることはなかった。  弓のように引き結んだ腕が、空気ごと連れて梗介に打ち上げられ、 拳も砕けろとばかりに、その頬へ激突していった。  あまりにも鮮やかに、それは梗介の頬へ貫くように入って、通過したので、 あ、綺麗に入った……、なんて、あまりの展開にも拘らず、僕はうっかり、そんなことをぼんやり思っていた。  柚弥の拳は何の憂慮もなく梗介の顔へ入ったが、その頬は反らされはしたものの、口端が少し掠れた程度で、大きな打撃にはならなかったようだった。  口許を押さえ、だが緩く振り向いた梗介の双眸からは、仄暗く底光る波動のようなものが揺らめいていた。 「…………(いて)えな。何しやがる。 殺すぞ」  本当に、即実行してしまうのではないかと思われる、怖ろしい眼光にこちらが戦慄したが、 柚弥はまるで動じず、寧ろその顔は思ったより平静に冷めていた。 「うっせえな。やってみろ。別に何遍も死んでるわ。 …………最低だ。梗介、最低だよ。知ってたけど、そこまで最悪だとは思わなかった。 もういい。……今日は(うち)に帰りたくない。 —— 裕都君ちに、泊まるっ!」 「ええっ……!?」  思わず、素っ頓狂な声を上げていた。  理解の方がまるで追いつかない、という感情が優ったのか、忌々しげ、というより梗介の眉は呆れたという風に歪められていた。 「はあ? 意味が解らねえ。勝手にしろよ」  柚弥と梗介の顔を見比べようとしたが、手首を熱い感触でぎゅっと掴まれ、それもたちまちに中断される。 「裕都君、行くよ!」 「え……っ! ああ……、うん……!?」  去り際に思わず梗介の様子を確認しようとしたが、思いの外ぐんぐん強い、吸引さながらの力で引っ張られ、 彼方を向く黒髪の後頭が揺れながら過ぎったが、それもまもなく荒々しく閉められる屋上の扉の音、遮断された屋外の光景とともに霧散され、瞬く間に、脳裏からも遠く見えなくなっていた。  僕の手を引きながら、柚弥はひたすら階下へ(くだ)った。  いつの間にか手首にあった指が、熱く強い力とともに僕の手のひらを握っている。  屋上への階段から抜けて、暗がりから夕陽の差す三年の教室を、廊下沿いに突っ切った。  猛然と前進するその顔こそ見えないが、行き過ぎる三年の生徒達の、「えっ、ユッキーどうしたん……」という時折漏れ聞こえる言葉から、彼がどんな形相で突き進んでいるか窺えるようだった。  三年のフロアを右折して、中庭に架かる渡り廊下を進んだ。  そのまま、行き当たった二階への階段を降りて行く。  進みながら、「柚弥君、ちょっと……っ」時折途切れがちに彼へ呼びかけたが、応えはなく、屋上を脱してからここまで、彼から一言も発せられることはなかった。  一階の廊下まで降って、とうとう正面玄関への道が見えて来た。  そのまま、校門への生垣が見える昇降口を抜けようとしている。二人とも、もれなく上履きのままだ。 「柚弥君、……柚弥君っ!」  少し強めに声を張って、彼の手を引いた。  きっ……! と音がするような様相で、柚弥が振り返った。  凄みのある眦に、こちらが圧されたようで、ああ、やっぱり綺麗な顔が睨むと迫力があるんだな……、なんて間の抜けた感嘆を覚えながらも、その迫力につい口ごもる。  けれど、その気色ばむ表情も、僕を認めるとともに、徐々に気まずそうな、何とも言葉が出てこないような面持ちをして、ゆるゆると、強張っていたその瞳や眉、唇が複雑に(ほど)けていくようだった。 「うん……。あの、靴、履いてないから……。あと、荷物も教室でしょ……? 僕もだけど……」  あえて落ち着くかと、そんなことを口にしている。  下方を向いた柚弥の瞳が、よほど離したくなかったのか、気付けば指が絡んだ状態の僕達の手のひらを認めて、慌てたようにその指を解いた。 「あっ、ごめん……!」  玄関から少し飛び出して、二人の脚は緑の泥除けマットの上にあった。  靴に引かれている、揃いの緑の流線(ライン)。  柚弥の上履きは、見映えを選んだのか紐付きの体育館シューズだった。  爪先のゴムの部分に、彼の雰囲気に一見そぐわないような、頭に花々を冠した骸骨(スカル)の、何かのロゴのような画がプリントされていて、それがやけに目を惹いた。

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