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ほっとした顔、してる

 下履きを履かずに出て来てしまったことについては、柚弥の念頭にあまり引っ掛からなかったらしい。  昇降口、泥除けマットのど真ん中に二人して陣取って、 「ユッキー、何で上履きなん」「避難訓練じゃね」帰宅の生徒が(わき)を線を引くように避けていくので、二人でさり気なく端に寄る。  それでも、戻ろうとか、靴を履くなどという選択肢は出ず、柚弥は溜め息をつきながら、これまでの流れの続きのように口を開いた。 「……ごめん。裕都君ち泊まるとか、俺、訳解らないこと言ってるよね……」 「いや、それはいいんだけど……」 「つうかほんとごめんね、梗介があんな……。てか何? 物凄くボタン外れてるんだけど! 何なの、梗介が外したの? もう何だよいかがわしいなあっ!」  見れば第三ボタンまで外されていて、外から目立たないようにと開きが深めのインナーも手伝い、僕にしては随分前がはだけた状態になっていた。  外された時の情況を思い出しそうになったが、目の前でぷりぷり怒りながら柚弥がせっせと釦を留め始めていて、それを見ていたら可笑しくて何だか消えてしまった。 「てか大丈夫? ……何も、されてないよね? 一応あの状態、まだ? だったよね……。多分何も、大丈夫だよね……?」 「…………」 「えっ?」 「あ、うん……。…………何も、されてない……」 「……嘘だ! それ、何かされたやつでしょおっ!?」  瞳を見開いてぐらぐら僕の腕を揺るがす力が案外強くて、上を向いてつい笑ってしまう。  こういう時、取り繕いが出来ないのは本当に不便だ。  それでも彼と梗介の関係性を考えて、やはり白状しなければいけないかという気持ちになる。 「あの……。ごめんね、あの…………、 キス、は、したかも知れない……」 「えっ? ……誰と誰が?」 「だから……。その、…………夏条(なつじょう)先輩と、僕……?」 「えええ!? 何でえっ!?」 「何でなんだろうなあ……」  ついさっき、あんなことがあった筈なのに、ますます瞳を向いて必死になっている目の前の柚弥を見ていると、確実に意識をぐらつかされる状態だったのに、その濃厚さが随分薄まっていくようで、どうにも笑いが滲み出てしまう。 「えっ、どういうことっ? キっ……!? まさか、舌とか入れたやつじゃないだろうねえ!?」 「し……っ、あっ、ごめん……、 舌は、入ってたかも知れな……」 「何で謝るんだよ、何で舌入れるんだよ! 幾ら日頃つい入れちゃうからって……、もう訳が解らない! あの人、ほんと何考えてるんだろうっ!」 「柚弥君が解らなかったら、誰にも解らないと思うよ……」 「庇う訳じゃないんだよ、俺は別にして、あの人、男とか全然普通にないんだよ! それを……、ええ……!?」 「うん、解ってるよ……。 多分、僕のことが、物凄く気に喰わなかったんだと思うよ……」 「それにしたってさあ……!? てか裕都君、さっきから落ち着き過ぎじゃない? 何でそんな落ち着いてられるの!?」 「いや違……、というか昨日から、色々あり過ぎて、正直もう訳が解らないんだよ……、」 「あ、そうだよね、ごめんねごめんね……」  昨日の映像(かけら)から、そして直近の、間近にあった梗介の妖うい残影などが想い浮かぶと、やはり脳裏からぐらぐら来て、僕は片掌で頭を抱えて俯いた。口は笑う余裕は、全然あったけれど。  それを心配して、柚弥がわたわた僕の頭に手を伸ばそうとする。結構硬めの癖毛で、触り心地は良くないだろうに。 「ユッキーが転校生慰めてるよ」「もう苛めてるんか」  脇を通り過ぎながら、誰かの言葉がぽろっと零れてきて、 「苛めてないっ!」柚弥は声を上げたが、直ぐに、 「…………苛めてるのかな」気落ちした調子が漏れて来て、僕は目の横にあった彼の手頸をそっと取った。 「大丈夫だよ」  見上げた瞳のなかが、どこか稚く想える表情で、心もとなく揺れている。 「苛めてなんかない。 正直、助かった。来てくれて。 結構精神(こころ)、持ってかれそう……、いや、殆ど持ってかれてたんだけど。 柚弥君が来てくれて、今も、僕が勝手に受けに行った打撃(ダメージ)だけど、かなり減ってる。 ——有難う」  瞳尻が吊りがちで、一見きつめの貌立ちだ。  それが横を向いて、照れたような、呆れたような、不快じゃない困惑の表情を滲ませて、笑みを呑みこんでいる。  昨日から見てきて、また彼の、色々な表情(かお)の一つだと想える、柔らかな鮮やかさだ。 「何でお礼なんか、言うの……」  正直に、安堵(ほっと)した顔してる、と思った。  それは思ったより打撃を受けていない、僕の持ち直しに、というのもあるけれど、 きっと、梗介がしたことに対して、深くあきらかな痕や咎めを持っていない、ということへの安堵もあるのだろう、と。

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