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来なよ

 辺りは夕陽の差す光に包まれているが、黄味の強い色に占められていて、まだ十二分に明るい。  とはいえ、帰宅に向かう生徒も疎らになってきて、僕は右手首のスマートウォッチを確認した。  午後五時(ごじ)を周っている。昇降口が違うから、かち合うことはないだろうが、先程から話の流れのなかで時折掠める存在を、僕はやっぱり口に出していた。 「柚弥君……、」 「ん……?」 「……夏条先輩って、あれで大丈夫だった……?」 「ええっ……!? 知らないよ、あんな奴! あんなことしておいて、まだ気に食わなかったら、どうせ女のとこにでも行くんじゃないのか! 気にすることないよ。あ、俺が殴ったのなんか、ぬいぐるみがぶつかった、くらいの痛手(ダメージ)しか受けてないから。腹立つけど」 「……」 「……どうせ、きっと嫌なこととか、言われたりされたりしたんでしょ。裕都君も詳しく話すの、嫌だろうから、あまり深く聞かないでいたけど」  つい、答えられずにいた。柚弥の言葉全てがその通りじゃない。  確かにあらゆる面で抉られる言動は取られた。そしてしばしば見られた柚弥に対する扱いのぞんざいさは、変わらず引っ掛かかりを否めなかったのは事実だ。  だが果たして、それはそもそも僕が干渉できる領域なのか、——僕をはじくための、防壁(ガード)を含んでいたのではないか、 そして梗介(かれ)が口を開く前の、言葉達は、振り返ればどうだったのか、と。  思案に沈みそうになった僕の頭は、柚弥の言葉で前に引き戻された。 「やっぱり、許せないよ」 「……」 「裕都君は、優しかったり心が広いから、もういいのかも知れないけど、 梗介は口もだけど凶悪さは、比類なきものがあるけど、 確実に酷いこと、言った。 それは簡単には、許せないよ」 「柚弥君……」 「いいんだよ、俺が勝手に許せないだけだから。後で懲らしめとくから」  僕が深刻に捉えないようにするためか、柚弥は案外くだけた口調で言ってみせて、 張っていた緊張を飛ばすためか、まくってあるシャツから透き通る二の腕を見せて曲げ、しなるように伸びをした。 「ああ、やっぱり今日は、帰るに気にはなれないな。 誰か泊めてくれる人、いないかな……、」  うーん、と首を唸りながら、本当に今晩外泊するあてについて、頭の中で考えを巡らせているようだった。 「そのことだけど……」 「ん……?」 「本当に、うちに来る……?」 「え、でも……。いきなり悪いよ……」 「いいんだよ。多分(うち)は、きっと大丈夫だから。……来たら?」 「…………でも」 「いいんだよ、来なよ。 ——というか、来てよ……!」  言われた言葉を確かめるように、柚弥の表情(かお)が、その瞳の両縁のまつ毛が広がるように見開かれて、その中の揺れる虹彩が、改めて美しい色だということに気づく。  この顔を見たのは、多分二回目だ。一回目は、今日の昼休みの始め。  また知った。柚弥(かれ)は、爛漫な無邪気さで、ひとたび心を開けば人の心に、戸惑いを覚えるくらいの眩しさで添ってくるのに、 いざ、自分が虚をつかれてその側に回ると、たちまちにむき出しの素顔をぽかんとさらして、思わず手を添えたくなるような、いたいけさを見せつけてくる。    要するに、意外に押しに弱いのだ、と。 「……」  柚弥は、声もなく、泣き笑いのような、諦めたような表情(かお)をして、微笑っていた。  今度は、昼休みの時とはまた違う笑顔だった。  だけど、"承諾"という応えを、そこから充分に受け取ることが出来た。  だから僕も、それを見て、やっぱり嬉しくて、その嬉しさが滲み出すぎないくらいの笑顔で、彼に返すことが出来たのだと思う。

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