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第29話

「クラスも違うし、なんの接点もない君たちが、どうして友だちになったのかな? 彼から君に近づいてきたんだろう?」    妙に優しい声音の玲衣を諭すような聞き方だった。  玲衣と煌が友だちになったのは、冷たい水で身体を洗っていた玲衣に、煌が寒いだろうからと、お湯の出る旧用務員室に連れて行ってくれたことから始まった。  いや、その前に、煌は夜の繁華街で義兄から玲衣を連れて逃げてくれた。  今回のことも、煌も家に帰りたくなかったのもあるが、あの時玲衣が『海がみたいな……』そう言ったからだ。  どれもこれも全部、煌が玲衣のためにしてくれたことだ。 「煌はそんなんじゃない、煌は誰よりも優しいんだ。刑事さんの言うような悪い人間なんかじゃない」  刑事はいきなり『ストックホルム症候群』という言葉を口にした。  ストックホルム症候群とは、誘拐や監禁事件で被害者が加害者に好意的な感情を抱くことで、特殊な状況下における一種の病気のようなものだと説明された。 「僕が病気だって言いたいんですか」 「だってそうだろう。じゃなきゃ男同士であんな……まともな精神状態じゃない」  刑事はその時のことを思い出しているのか、顔を歪めて言葉を呑み込んだ。 「キスのことですか」  目を泳がせる刑事を見て、玲衣は自虐的に笑った。  男同士でキスすることがまともな精神状態じゃないという刑事に、本当のことを言ったら、どんな顔をするだろうか。  見てみたい、そう思った。 「僕が家を出たのは、子どもの頃から僕にセックスを要求してくる義兄に嫌気がさしたからです。義父も母もそれを知っていてずっと見て見ぬフリでした。あの日、僕はついに我慢できなくなって、義兄の太ももをハサミで刺したんです。それを知った煌は、僕に同情して一緒に逃げてくれただけです」  この事を煌以外の誰かに話したのは初めてだった。  口にするだけで、再び義兄に犯されているようで吐き気がしてきた。  刑事と部屋の隅で記録を取っていた警官の顔が、一瞬引きつったのが分かった。 「君は……一度心理カウンセラーに診てもらった方がいい」 「なぜですか。僕はいたって普通です」 〝普通〟その言葉を口にした途端、もうひとりの自分が高笑いした。  普通だって? 子どもの頃から義兄のあそこを何度も咥えた自分が普通? 自分に手を差し伸べてくれた純粋な煌を惑わせ友情を汚そうとし、最後は自分からキスをした。刑事の言う通り、まともな男子中学生がすることじゃない。  小、中校と、玲衣は真っ白な羊の群れに紛れ込んだ一匹の汚れた羊だった。  その汚れは身体の奥深くまで染み込んでいて、いくら洗っても落ちない。  自分が周りと比べて異質な存在であることは分かっていた。  自分は変なのだ。  それでも、玲衣は煌と一緒にいたかった。  煌と一緒にいると、自分についたシミが乾いていくような気がした。  それなのに……。ああ、直接煌に会って謝りたい。 「煌に会わせてください。この建物の中のどこかにいるんでしょう?」  刑事は首を左右に振り、煌は別のもっと大きな警察署に連れて行かれたと答えた。 「煌はこれからどうなるんですか? どうやったら煌が僕を誘拐したんじゃないって証明できるんですか?」 「君のお父さんが告訴を取り下げないことには、こちらとしてもどうしようもない」  これから煌は取り調べを受け、その後、検察に起訴されれば家庭裁判所に送られることになる。  未成年者誘拐罪なんて馬鹿げているが、万引きと置き引きをしたのは本当だし、煌には補導歴があり、探せば他に余罪も見つかるだろう。  まず不処分ということはあり得ない。よくて保護観察。最悪少年院なんてこともあるかもしれない。  とにかく、未成年者誘拐罪の方だけでもなんとかしなければならない。  刑事は、告訴の取り下げは検察に起訴される前でないとできないと教えてくれた。 「義父を説得します」  玲衣は椅子から立ち上がった。  ちょうどその時、取調室のドアが開き、玲衣の迎えが来たと伝えられた。 「また、何か聞くことがあったらその時は連絡がいくから」と、刑事は締めくくった。  形だけの短い事情聴取だった。  今回のことは、最初から結果が決まっている出来レースなのだ。  長い廊下の先に母と義兄がいた。母は涙目でおどおどしていて、義兄は不機嫌そうに身体を斜めに倒し、その手にはステッキが握られていた。  玲衣の前を歩いていた刑事の足が止まった。  刑事の視線が義兄のステッキに向けられている。  いくつもの事件を見てきたその目の奥が、真実を求めて鋭く光った。  しかし、彼はまたその多くの経験から、世の中の不条理を知り尽くしていた。  刑事は視線を前に向けたまま、ゆっくりと口を開いた。 「大人になれば、そうすれば、世界が変わる」 〈早く大人になりてぇ〉  煌はよくそう言っていた。  早く大人になりたい。  玲衣は今日ほどそれを強く思ったことはなかった。  玲衣への同情と憐憫(れんびん)を顔に浮かべる刑事に一礼すると、玲衣は母と義兄が待つ方へと歩いて行った。

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