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序章 入寮と邂逅
年の瀬も近付いた十二月、第五分室は設立から三年を経て寮制度を取り入れた。理由としては機密性の高い案件が多く別棟のセキュリティではその保持に懸念がある事と、最大の理由は所属メンバーの安全の為だった。分室が出来た時から室長の四條によって計画が練られていたこの寮制度は、先日メンバーの一人である詩緒が自宅の鍵を複製され押し入られるという件を発端に一気に加速した。
資産家でもある四條の資金で建設されたこの寮はその目的通り、日常生活を送る事に不備は無いが中でも専用回線の引き込みや内外に配置された高性能監視カメラ、唯一の入り口は強固なオートロックと居住する人の安全を第一に設計されていた。
オートロックの玄関を抜ければ目の前にはすぐにエントランスが広がり、右手側には二階まで吹き抜けのラウンジがあり設置された約五十インチのモニターは本棟に残る四條とのリモート会議には最適な大きさとなっている。
二階へと上がる階段の奥には食堂とされるダイニングスペースと、カウンターキッチンの奥には大きな業務用冷蔵庫を備えたキッチンが存在している。
階段を上り二階へと辿り着けば、右側に通路を中央として左右に五部屋ずつ個人の部屋が用意されている。間取りは居住重視の2Kでキッチンスペースは狭いが風呂とトイレは別で、寝室と仕事部屋を分ける事が出来る。当然ペットの飼育も可となっているが、分室メンバーの中でペットを持ち込んだのは斎から子猫のソルトを譲渡された綜真だけだった。
部屋割りも小動物を苦手とする真香へと配慮されており、左側手前から三番目のⅢ号室が斎、一つ空けたⅥ号室が綜真、右手側一つを空けたⅧ号室が真香、一つ空けたⅫ号室が詩緒の部屋となっている。綜真と真香の部屋同士は対角線上で一番遠い部屋同士となっており、綜真の部屋が通路の一番奥という事もあり用が無ければ真香が綜真の部屋へと向かう事も無い。詩緒から見れば扉を開けた右斜め前が綜真の部屋となり、左斜め前が斎の部屋、斎から見れば左斜め前が詩緒の部屋で右斜め前が真香の部屋となる。居住人数よりも空き部屋の方が多いのは、四條が今後も増員を検討しているからではあるが、綜真を除くただでさえ繊細な既存分室メンバーとしては多くの他人と寝食を共にする事はあまり好ましい事では無かった。
ただ一人、一同が諸手を上げて入寮を希望する存在と言えば斎の元先輩である千景であるが、千景本人は四月に引っ越しをしたばかりであり一人暮らしでも無い事から再三の勧誘を断り続けていた。
そんな千景も良好関係である分室メンバーの事は日頃から気にかけており、メンバーが入寮を迎えたこの日はただ遊びに来て欲しいと誘われ、休日だった事から恋人の玲於と共に差し入れを持って訪れていた。社員でも無い玲於を寮へ一緒に連れて来る事に躊躇いがあった千景だったが、メンバーの一人である詩緒は既に玲於と面識があり、是非連れてきて欲しいと言われた為同行させる事となった。
「詩緒さんと会うの久し振りだなあ」
「レオは榊とは一年振りくらいだったか。家じゃないんだから騒ぐなよ」
昨年末、千景は道で行き倒れていた詩緒を玲於と住む家に連れ帰った事がある。詩緒が元上司からの度重なるパワハラで倒れた時もその場に居合わせており、当時は転職した直後だったがそれから幾度となく詩緒の事を気にかけていた。
二人の左手薬指に光るお揃いのシルバーリングはこの八月玲於が十歳上の従兄である千景にプロポーズと共に渡したものだった。それから程なくして千景は二人の籍を一つにする為玲於と養子縁組をした。戸籍上では玲於が千景の息子という形になっており、玲於は名字を従来の『本木』から『佐野』へと改めた。養子縁組には二人の従兄である竜之介の尽力が大きく、実の兄より兄と慕っている竜之介に対して千景は今回の件も含め頭が上がらなかった。
分室に所属していない千景は寮の前まで来ると、とても寮とは言い難いその景観に目を丸くした。本棟から徒歩五分弱、高級住宅街の中に聳え立つその寮は一見して立ち並ぶ他のマンションと遜色無く、内部の造りを知らなければマンションと間違えてしまうだろう。千景と玲於も四月に本棟へ近い場所へと引っ越した為寮までの距離はそう遠くない。それでも二人が暮らすマンションとは豪華さが違う理由はこの為に建築された築年数の新しさもあるのだろう。
普通のマンションと違うところはオートロックの呼び出しボタンに番号が表示されていない事だった。どこに繋がるか定かではない呼び出しボタンを千景が押すと数十秒後にライトが点灯し、マイクからくぐもった詩緒の声が届いた。
『千景先輩、今開けます』
言葉の後すぐに木目調の自動ドアが左右に開かれ、初めて見るオートロックに感動する玲於の手を引き千景はエントランスへと足を踏み入れる。
外観に反して内部はそれほどの華美さは無く、モノトーンでシックなエントランスで靴を脱いでいると右奥の階段から詩緒が下りてくる。
「外寒くなかったですか? コーヒーでも入れますよ」
肌を刺すような外気とは異なり寮の中は空調管理されており比較的暖かかった。エントランスが一階という事もあり快適とまではいかない温度ではあったが、居住空間は二階という事は聞いていたので節電の意味合いもあるのだろうと考えた千景は上着を脱いでエントランスのハンガーポールにコートを掛ける。
「詩緒さん久し振り~」
玲於は靴を脱ぎ散らかしたまま一年振りに会った詩緒へと駆け寄る。千景は二人分の靴を揃え並べると振り返り詩緒へ歓喜のハグをしている玲於へと視線を送る。
詩緒と玲於が並ぶと二人の身長はほぼ等しく、どちらも千景よりは高身長で百八十を超える高身長の持ち主だった。別棟で勤務をしていた時も私服が許可されていた詩緒は白や黒などモノトーンの服を好んで着ていたが、この日も黒いハイネックのセーターと濃い青色のスキニーを穿いていた。顔の造形は美形であるものの本人はその容姿には無頓着で伸びっぱなしの黒髪は前髪がほぼ鼻を隠すまでに伸びていた。反して美容師の従兄がいてカフェで接客業のアルバイトをしている玲於は定期的に脱色している髪は明るい金色で、肩に当たる程度のミディアムヘアをハーフアップで纏めていた。玲於の服のセンスに関しては美容師の虎太郎という強い味方がおり、オーバーサイズのパーカーにブラックパンツの組み合わせは千景が隣を歩いているだけでも十分人目を惹く事が分かった。
「レオ、榊が窒息するからやめてやれ」
二人の身長はほぼ同じでもその体格には大きな差があった。食事をしているかと不安になる程白くて細い詩緒とは対照的に、週に数回ジムで身体を鍛え始めた玲於の筋肉の成長には目を見張るものがあった。元から筋肉が付き難い事を気にしていた千景から見れば、玲於が全力で抱き締めれば詩緒の骨は簡単に折れてしまうのではないかと思う程だった。
「あっ、そうだね、ごめんね詩緒さんっ」
千景に指摘された玲於はハッとして両腕の中から詩緒を解放する。決して危害を加えようとしていた訳では無いので痛みこそ感じなかったが、圧迫感から解放された詩緒は胸を撫で下ろして呼吸を整える。
「レオ、榊に会いたがってたんだ」
「……妬かないんですか?」
籍まで入れた恋人が他の男に抱き着いている姿を目の当たりにして何の感情も無いのかと、詩緒は玲於のコートを脱がせてハンガーポールに掛ける千景へと視線を送る。
「榊に? 妬かないだろ」
他の誰かならばいざ知らず、弟同様に気に掛けてきた詩緒と玲於が抱き締め合っていたところでそれはただの戯れにしか見えず、嫉妬の炎を燃やすどころか微笑ましいだけのものだった。千景の言葉を聞いた詩緒は自分ではまだその領域に達せられていない事を僅かながらに後悔した。弟を二人持ち長男である詩緒は今まで自分の身の回りに年上の男性が居なかった事から千景の事を人生の先輩と捉えるとともに、兄の様にも慕っている節があった。自分が頑張らなければいけないという長男にありがちなプレッシャーから詩緒を解放したのは千景の存在だった。
「荷運びもセッティングももう全部終わってて、明日から作業出来るんだっけ?」
詩緒によりダイニングへと案内されコーヒーを待つ間千景は内装を見渡す。寮の食堂というよりは広めのダイニングと表現する事が相応しいこのスペースはエントランスよりも暖房が効いており、喫煙者が多い事からか空気清浄機の音が静かに響いている。
「そうですね、朝のミーティングはラウンジでやる事になるみたいですよ。四條さんとリモート電話繋いで」
必要があれば四條も寮に顔を出す事はあるだろうが、別棟が無くなった今四條の席は本棟にあり本社での会議が多い事からも寮に四條自身の部屋は用意されていない。
カウンターキッチンを挟んだ奥で用意をする詩緒の方からコーヒーの芳ばしい香りが漂ってくる。まだ殆ど使われていないキッチンは恐らく日常的に料理をする真香の独壇場となるのだろう。家事に無頓着な詩緒はキッチンを汚さないようにと真香から厳重注意を受けており、詩緒がキッチンに入る事は今のように飲み物を準備する事以外には起こらないだろう。
「ああそうだ、引っ越し祝いに蕎麦持って来たんだ。後で皆で食べてよ」
手に持ってきたのもに関わらず、このタイミングまで渡す事を忘れていた引っ越し祝いの蕎麦が入った紙袋を上げて見せる。玲於は何故蕎麦なのかという理由が分かっていないようだったが、千景が言うのならば間違いが無いのだろうと特に深く追求する事も無く、千景の隣で椅子に腰を下ろしていた。
「ありがとうございます、後で真香に渡しておきますね。良かったら千景先輩たちも食べてって下さい」
二つのカップをトレンチに乗せた詩緒がキッチンからダイニングへと姿を現す。来客用のカップを千景と玲於の前に順に置いた後、元々は詩緒の家にあった掛け時計へ視線を移す。処分出来る物は処分し持ち込める物は持ち込む、私用とするも共用とするも個人の采配に委ねられており、詩緒は自分の家にあった掛け時計をダイニングの共用時計として提供した。先程詩緒が淹れていたコーヒーメーカーも元々は真香の私物であり、折角だから皆で使おうと寄贈したものだった。
「そうだな、じゃあ俺たちも頂いて行こうかな」
寮として機能しているこのキッチンに居住者以外の食器は元々用意されない予定だった。全員が集まって食事をする事もなく、誰かの使った皿は嫌という事もないので思い入れのあるマグカップや箸以外は必要最低限の人数分しか用意されていなかった。しかし千景と玲於の分を含めても箸の用意があるという事が、元から千景が分室メンバーとしての頭数に入れられてしまっているという事に千景自身は気付いていなかった。
紙袋から蕎麦の袋を取り出し一袋が何人前か確認しようとした千景の背後でダイニングの扉が開かれる。
「ああ、此処に居たか詩緒――」
猫を決して部屋から出すなと真香から言われている綜真は切なげに鳴く愛猫ソルトを部屋に残し、詩緒を探して自分の部屋から食堂へと下りてきていた。ダイニングの前を通れば中から話し声が聞こえ、引き戸に手を掛けると僅かに隙間から見えた詩緒の姿と二人の客人の姿。そういえば詩緒が世話になっている先輩が遊びに来ると言っていたかと思い出した綜真は挨拶も兼ねて扉を開いた。
「綜真。まだ会った事無かったっけ。第二開発の佐野さん」
背後の気配に千景は振り返る。顔立ちは上品ながら目付きには鋭さがあり、ハーフリムの眼鏡が僅かに緩衝の役割を果たしていた。口にはまだ火を付けていない煙草を咥えたまま、少し動くだけで猫っ毛で緩やかな髪が揺れる。
四條が神戸支社から従弟を庶務として招集したという話は聞いた事があった。それが詩緒、真香、斎の三人と波風を立てず上手く仕事をする事が出来る人間であった事に千景は驚いたが、まだ直接顔を合わせた事は無かった。詩緒や斎からそれとなく名前を聞いていたような気はしたが、この日が初対面となった千景は挨拶をしようと振り返りざまに椅子から腰を浮かせる。
「千景先輩、こないだ入った庶務の御嵩です」
「――――み、たけ?」
「は、千景……?」
千景と綜真はお互いの存在を認識したまま凍り付いた。この日この場所で出会うなど一体誰が予想しただろうか。あまりにも想定外過ぎた再会にお互いが言葉を失う。無意識に拳へと力が入り、千景は手の中の蕎麦を握り潰していた。
「ちか兄、知り合い?」
千景を現実に引き戻したのは隣に座り心配そうに千景の横顔を覗き込む玲於の言葉だった。今この場には玲於も一緒に居る事を思い出した千景は振り返っていた状態からすぐに前を向き直す。僅かな後ろめたさが玲於の目を直視させる事を拒んだ。言葉の代わりに玲於の片手を強く握り込む。千景は今平静を保てている自信が無かった。
「……え、どういう事?」
続いて聞こえたのは正面に立つ詩緒の言葉だった。千景の様子とダイニングの入り口に立ち呆然としている綜真へと順に視線を送る。詩緒の脳内を駆けたのは千景が転職前神戸で勤務をしていた事と綜真が神戸支社から異動してきた事だった。神戸という土地がどれ程広いのか詩緒に想像は付かなかったが、偶然の一致とは言い難い二人の反応に詩緒の中で猜疑心が沸き起こる。
「まさか、付き合ってたとか、そういう……?」
現在進行系で無い事は詩緒の目から見ても明らかだった。それでも二人の間に何かがある事は隠しようの無い事実であり、その事に気付いていないのは玲於だけだった。
「待っ……てくれ、榊違う!」
片手は玲於の手を握ったまま、もう片方の掌を詩緒へと突き出す。必然的に蕎麦はテーブルの上へと落ちた。千景が何をどう伝えるつもりなのか綜真は内心動揺していた。出来る事ならばすぐにでも詩緒の誤解を解きたい綜真だったが、千景が手を握る相手が恋人関係にあるのならば迂闊な事を言うべきではないと判断し口元に手を添えて閉口していた。その間にも徐々に募っているのが分かる詩緒から自分への不信感に綜真は気が気では無かった。
何が一番最適な言葉なのか、千景は頭の中でシミュレーションしていた。詩緒の言葉から綜真とそういう関係である事は混乱した千景の頭でも認識が出来た。そうなると尚更玲於にも詩緒にも誤解を与えない言葉を選ばなければならない。
「ええと……ああそうだ、知り合いの知り合いって感じで直接知り合いだった訳でも無いんだ。顔合わせれば殴り合いしかしなかったし」
「え、ちか兄殴るの……?」
「うっ……」
千景の言葉に玲於が驚いた。玲於から見れば温和で自分が振るった暴力でさえも優しく受け入れてしまう千景が過去誰かに暴力を振るった事があるとはとても想像が付かなかった。その証拠に玲於は今まで一度も千景に殴られた事は無い。
言っている事は確かに間違っていないと納得した綜真はそれでも猜疑心が燻る詩緒に安心を与えられればと考え自らの身を投げ出す事にした。
「そうそう、俺がコイツの女顔からかうといつもさ――」
言葉を最後まで告げる前に綜真の身体は床に沈んでいた。それは一瞬の出来事で、綜真からの『お』という言葉を認識した瞬間千景は即座に背後の綜真を振り返り拳に溜めた渾身の力を綜真の鳩尾へと打ち込んだ。あまりにも早すぎる一連の動作に詩緒と玲於の二人は目を丸くし落ちた綜真へと視線を送った。
「っは、い……ってぇだろうが! この眼鏡ゴリラ!!」
落ちはしたが腹の筋力で一部防ぐ事が出来たのか、綜真は床から起き上がると同時に千景の胸倉を両手で掴み上げる。
兄弟揃ってあだ名はゴリラなのかと一瞬考えた玲於だったが、直後に千景を助けたいという気持ちが働き椅子から腰を浮かせる。
「うるせぇな、誰が女顔だぶち殺すぞへたれ野郎」
対する千景も綜真の至近距離での怒鳴り声に辟易した表情を浮かべつつ眉間に皺を寄せて睨みをきかせる。
綜真は演技が出来るような狡い人間では無い。今のこの血管が切れそうな程の表情は詩緒でも今まで見た事が無いものだったが、この二人に限って過去に付き合っていたなどという事は無さそうだと詩緒は内心納得が出来ていた。しかしこうして改めて見てみると綜真と千景は身長が同じ位だなと詩緒は感じた。
「あ、うん。もう分かったから。二人とも落ち着いてくれないと玲於がビビってる」
綜真と睨み合う千景の服を掴みながら玲於は大きな形をして小さく震えていた。詩緒のみならず玲於も父親の影響で怒声や暴力を非情に苦手としていた。綜真の掴む手が緩み、詩緒から指摘を受けた千景はすぐに椅子へと座り直し震える玲於の頭を胸元へと抱き寄せる。
「ごめんなレオ、怖かったな……」
千景がゆっくりと背中を撫でて行くと次第に玲於の震えが治まっていく。誤解は何とか解けたようだと安堵した綜真は上がった呼吸を落ち着けながら詩緒へと視線を送る。視線が交差するとにっこりと詩緒が浮かべた笑みが逆に恐ろしかった。
「し、詩緒? 分かっただろ、コイツとは何も無いんだって……ただ顔見知りってだけで」
「――玲於、俺の部屋で遊ぼ。千景先輩、真香呼んで来ますね」
綜真の懇願の言葉に一切の反応を見せず詩緒は歩き出すと千景の横で立ち止まる。詩緒の言葉を聞いた千景はその腕から玲於を解放しとん、と背中を叩く。
「行ってきな、蕎麦が出来たら教えるから」
「う、うん……」
このまま千景を置いていって良いのかと悩んだ玲於だったが、千景の言葉に後押しされ椅子から立ち上がるとダイニングを出る詩緒の後に着いて行く事にした。目の前を素通りされそうになった綜真は詩緒に何か言葉を掛けようと口を開くが、その言葉より先に詩緒の冷ややかな笑みが綜真に突き刺さる。
「後で覚えとけ」
「ちがっ、誤解だって詩緒! なあ詩緒っ!」
詩緒が玲於と共にダイニングから出ていくと綜真も何とか詩緒の怒りを和らげようと後に着いて行く。ただ一人ダイニングに残された千景は激しい後悔に苛まれていた。一人になれた事は寧ろ好都合で、このタイミングで玲於に問い詰められたならば恐らく千景は本当の事を話してしまっていただろう。
千景と綜真の間に関係が無いという事は事実で、暈された真実は千景の言葉の中にあった。綜真が自分に気を使った事もすぐに分かった。綜真は千景が神戸に居た頃付き合っていた相手の友達だった。いつだったか従弟の虎太郎に神戸で男が居たのかと問われた千景だったが、その推測はあながち間違いでは無かったのだ。
玲於の前に付き合っていた相手が居た事を詩緒に知られる事は構わない。しかし初めての相手では無い事を異様に気にする玲於には話せないままだった。その関係は千景が神戸から離れる前に終わっており、今も頻繁に連絡を取るような後ろ暗い事は一切無い。それでも千景のスマートフォンにまだ元彼の番号が残っていると言えばきっと玲於は良い気がしないだろう。嫌いで離れた訳では無かった。しかし今でも恋愛感情を持っているのかと問われればそういう訳でも無い。二人の始まりから終わりまでの全てを知っているのが、元彼の友達である綜真だったのだ。
綜真は友達の恋人に手を出すような人物では無いし、顔を見れば殴り合っていたというのも事実だった。二人の間に何も無かったという説明をする為には千景の元彼の存在が必須ではあったが、それが話せなかった為歪な回答になってしまった。綜真が千景に配慮したのも、千景の元彼本人がとても堅気と言える人物では無かったからである。凡そ詩緒や玲於とは縁遠い。四年前の神戸、綜真と千景は地元では有名な半グレ集団に属しており、千景の元彼はそのリーダーだった。
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