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二十八、君がくれる感情は、言葉は、いつも。 ※注
夢から覚めた時、自分の頬をつたう涙をそっと拭う指先があった。ぼんやりとする頭は、視界に映るものさえ曖昧にして、その行為を拒否するという選択肢すら思い付かないようだ。
あたたかいその身体に抱かれて、優しい指先に触れられている。完全に油断していた櫻花 は、冷たい水でもかけられたかのようにびっくりして、慌てて起き上がろうとしたが、止められる。
「急に起き上がったら、危ないよ?」
「あ、あれ? 私、どうして········君、もしかして、なにか····してませんよね?」
昔の夢を見ていた気がする。すごく嫌な夢。でも、いつの間にか心地の良いものに変わって、気付けばあの黒い靄のような感情が晴れていた。
目を覚ました櫻花 は自分の今の状況を確認し、困惑する。それもそのはず。肖月 に抱き上げられた状態で、彼の白い衣の胸元あたりをしっかりと掴み、膝の上に横向きで座っていたのだ。
起き上がろうとした時に止められてしまったため、今もその体勢のまま動けずにいた。彼の右腕が自分の肩の辺りを支えていて、左手は先程まで頬をつたう涙を拭ってくれていたが、今は櫻花 の左手の上に置かれている。
衣を握りしめたままの櫻花 の右手を気にして、抱き上げた格好のまま、その場に座ったのだろう。
櫻花 は肖月 の衣の胸元を掴んでいた手を、そっと放す。
「なにかしてない、とは言えないかな?」
言葉に詰まって、櫻花 はうぅと唸る。
「と、とりあえず、この体勢をどうにかしたいのですが······」
「俺はこのままでかまわないよ。地面は岩だらけで冷たいし固いから、ゆっくり眠れないでしょ? 倒れたんだから、休まないと」
もっともらしい理由で肖月 が返す。どうやら、放してくれる気はなさそうだ。正直、心地好いと思っている自分がいて、櫻花 は諦める。
涙の痕を見つめて、肖月 は青銀色の眼を細める。
櫻花 は身体を預けるように力を抜いて、俯いたまま口元を緩めた。その笑みは、前に一瞬だけ見せた寂しそうな笑みに似て。
「私は、きっと····疫病神なんです」
だから、ひとりでいるのが一番良いのだ。
この強運は、自分だけに齎されるため、周りの人間は逆に不幸になってしまう。
「それは、違うと思うけど?」
このたった数年の間に、たくさんの人々をその手で救ってきた。そこに小さいも大きいもないが、その誰もが最後は笑顔になっていた。
誰も不幸になんてなっていない。
それに、あの日、森の中で再会した時のことも。
そのきっかけも。
あれは自分の幸運と、櫻花 の強運が合わさって起きたのだと、今なら解かる。
「あなたは、俺にとって光だよ」
その言葉を、初めて聞いた気がしなかった。
櫻花 は顔を上げ、じっと肖月 を見つめる。逸らすことなく見つめ返してくるその瞳に、彼の誠実さを感じた。
「私がどうして地仙のまま、地上に留まっているのか······訊かないんです?」
「前にも言ったけど、あなたが話したくなったら話してくれれば、それでいい」
本当は、もう、夢の中で見てしまった。あの悲惨な光景が、櫻花 の心を蝕んでいるのだという事も、知っている。
優しい櫻花 には、耐え難い苦痛だろう。自分のせいで配下が全員殺されたのなら、尚更だ。
それに天界に戻れば、その原因となった神に会うかもしれない。
天帝は櫻花 を大層気に入っていると、弁財天も言っていた。
呪いを解くためとはいえ、天仙になって天界に昇ることは、櫻花 にとって、必ずしも喜ばしいことではないのだ。
「肖月 、ありがとう」
その言葉と表情に、肖月 は静かな笑みを湛える。
優しい言葉。優しい声音。その穏やかな笑みも。全部。
自分だけのものになればいいのに――――。
再び、左手で櫻花 の頬へと触れた。
まだ冷たいままのその頬は、肖月 に触れられた途端、赤みを帯びる。それが嬉しくて、触れたまま親指だけ動かして撫でると、戸惑いを隠せない琥珀の瞳が見上げてきた。
櫻花 はどんどん近づいて来る綺麗な顔に対して、どうしたらいいか解らなかった。出逢ったあの時のように、口付けされてしまうのではないかと思うと、心臓がなんだか騒がしい。あの、力が抜けてしまうほどの激しい口付けは、忘れようとしても忘れられるはずはなかった。
そんな感情を見透かすように、肖月 がふっと悪戯っぽく笑みを浮かべる。
「口付けすると思った?」
「からかわないでくださ········」
言い終わる前に塞がれた唇は、こうなることを求めていたかのように緩く開かれ、受け入れてしまっていた。
「······ん····っ········ふ····ぁ」
あの時のように貪るような激しいものではなく、優しく気遣いのあるそれに、櫻花 は逆に絆されてしまう。
(このまま、あなたを穢してもいい? 嫌なら、お願いだから拒否して欲しい····)
無意識に右手が肖月 の衣を掴み、気付けばしがみ付くようにしっかりと握りしめていた。肖月 は息を整えるために一度唇を放したが、逆に櫻花 に引き寄せられてしまう。
「やめ、ないで····、」
この感情を、なんというのだろう?
考えるだけで、胸の鼓動が速くなり、頭が痺れてくる。こんな貪欲な感情ははじめてだった。
「····わた、し、は、きみに·····してほしい」
「意味、わかって言ってる? 後悔しない?」
君がくれる感情は、言葉は、いつも。
自分だけに向けられているのだと、知っている。
嘘偽りのない、その想いは、きっと――――。
「····きみが、いい」
ゆっくりと目を閉じた櫻花 は、それ以上考えるのを止めて、その身をただ委ねるのだった。
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