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二十九、君だけに、あげる。 ※注 

 乱れた衣を直しながら、鎖骨辺りに咲いた赤い印にそっと触れ、ゆっくりと隠す。誰にも見せたくない。自分だけが知る、印。  何度も交わした口付けを思い出し、肖月(シャオユエ)は幸福感に満ちていたが、その反面、櫻花(インホア)を穢してしまったという自分の罪深さに落ち込んでいた。 (俺は、卑怯だ。あなたの優しさに甘えて、自分の欲を満たした)  両腕でぎゅっと抱きしめる。  櫻花(インホア)は、初めて会った時からずっと、いい香りがする。その名と同じ、花の香。桜の匂い。 「俺はあなたが好きだよ? あなたも同じ気持ちだって、今だけは思い上がってもいい?」  抱きしめたまま耳元で囁く。  桜を好きと言った時の櫻花(インホア)を、息が止まるほど美しいと思った。あの夢の中で舞わせた桜の花びらに、嫉妬している自分がいる。  肖月(シャオユエ)は肩と腰に回していた腕を解く気はなく、膝の上に座らせたまま、そうやってずっと櫻花(インホア)の肩に顔を埋めていたら、耳元で微かに吐息混じりの声が漏れた。 「······(シャオ)(ユエ)?」  少し苦しそうに言葉を紡いでいた櫻花(インホア)は、自分とは違うぬくもりに心地好さを覚え、ぼんやりとしていた。洞穴の外から射し込んでいる光の帯と、鳥の声、冷たい風に意識を少しずつ取り戻していく。  身体の両脇にだらんと垂れていた腕が、ゆっくりと肖月(シャオユエ)の背中にまわされた。力なく握られたその指先は、背中の肩甲骨辺りに遠慮がちにしがみ付いてくる。  こんな風に誰かに縋ることを、怖いと思っていた。手を差し伸べることはあっても、自ら手を伸ばすことをしてこなかった櫻花(インホア)は、こんな自分でも誰かに縋ってもいいのだということを、数百年も経って初めて知ったのだ。 「君は、そうやって······私の初めてを、奪っていくんですね、」  言って、櫻花(インホア)は微笑を浮かべる。その表情は肖月(シャオユエ)には見えない。  まだ寝ぼけているのか、掠れた声が妙に艶っぽかった。その言葉だけで、自分の胸がばくばくと高鳴っているのが解かる。 「夢の中で、蹲っていた私を助けてくれたのは、君、だったんですね、」  起きた時は曖昧だったが、こうなる前に見たあの暗く悍ましい夢を、美しく愛おしい花びらが舞う夢に塗り替えてくれた、ひと。  頭を撫でてくれたのは、目の前の白髪の青年だったのだと、確信する。  お互い抱きしめ合ったまま、余韻に浸る。  珍しく、肖月(シャオユエ)はなにも言わなかった。自分がやったことを櫻花(インホア)がどう思うか。  夢を覗かれたこと、過去の出来事を知られたこと。話したくなったら、なんて言っておいて。 「君が桜を好きだと言ってくれたこと。私を、好きだと言ってくれたことも。本当はすごく、嬉しかったんですよ?」  あの日、目の前に現れた不思議な雰囲気を纏った白髪の青年。突然、好きと言われ、奪われた唇。恐怖というよりは困惑。悲しみよりも、疑問。  どうして自分のような者にそんな言葉を向けてくれるのか、正直、理解できなかった。 「不思議ですね。いつの間にか、私は君のことばか······り、」  言いかけて、櫻花(インホア)は耳まで真っ赤になった。 『いつの間にか、君のことばかり考えている』  寝ぼけていた頭が、急にすぅっと晴れた。虚ろだった瞼が開かれ、驚き、握りしめていた衣から指を離す。しかし、肖月(シャオユエ)は放してくれず、そのまま抱きしめられている。 (この気持ちの、想いの答えは、いつも君が言ってくれる言葉と同じなのだと、今ならわかるような気がします)  まるで夢の中で話していたような感覚だった。それが自分の口から出ていたのであれば、それは、間違いなく。 「······放して、くれませんか?」 「あなたが、嬉しいことを言ってくれたせいで、顔を見せられない」  肖月(シャオユエ)は、口元が緩むのを隠すようにますます顔を埋める。肩に息がかかって、櫻花(インホア)もなんとも言えない表情になってしまう。これではいつまでもお互いの顔が見れない。  しばらくして落ち着いたのか、ぴったりとくっついていた身体が離れていく。  その喪失感を埋めるように、櫻花(インホア)は無意識に肖月(シャオユエ)の白い衣の袖を掴んでいた。 「あなたが望むなら、何度でも言うよ?」 「え········、」  顔を上げて、櫻花(インホア)は首を傾げる。 「俺は、あなたが好きだよ」  それは、まるで光のように。  朝露に光る葉のように。  その青銀色の瞳から、目を離せなくなる。 「あなたの気持ちは?」  その問いの答えを、櫻花(インホア)は知っていた。 「私、は、」  その少し後、その唇から零れるようにぽつりと落ちたその言葉に、肖月(シャオユエ)は静かに笑みを浮かべる。  外は雪で冷たい空気が漂っているというのに、ふたりの周りだけは、まるで春の陽だまりのようにあたたかかった。  この気持ちは、言葉にすれば脆く、けれども大切な、モノ。  そのかけがえのない感情は、初めての、モノ。  この想いは、言葉は。  君だけに、あげる。

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