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13:しゅき!正しくない日本語でしか、伝えられない気持ちがある

 京明大学に入学して初めての前期テストが始まった。 「あー、明日も明後日もテストかぁ。つかれたぁ」  俺はリュックを背負い、とぼとぼと学内を歩く。  テスト期間もすでに中盤。勉強不足は否めないが、論述形式の問題が多いおかげで、どうにか九十分間、答案用紙を必死に埋める毎日だった。 「あっつ……早く、ブルーマンデーに行こー」  とはいえ、通常授業がなくなったことで逆に時間に余裕ができた俺は、今日も今日とて≪ブルーマンデー≫へ向かう。  どうせバイトがなくたって、まともにテスト勉強をするわけじゃないのは、自分が一番よくわかっている。だったら、涼しくて本のたくさんある空間で、最高の夏を過ごしたほうが、精神衛生上とても良い。  と、思ったのだが! 「ごめんね、直樹くん。暑いだろう」 「あ、いえ。そんなことは……」  ある!!  まさかの予想に反して、灼熱地獄と化したブルーマンデーで、俺は静かに床に膝をつきそうになるのをグッっとこらえた。 「マスター、いつからブルーマンデーはこんな地獄に……?」 「昨日の夜、突然ね。古いカタだったから、いつかは……と思ってたけど、まさかこんなに急に動かなくなるなんてね」  エアコンがぶっ壊れた《ブルーマンデー》は、まるで地獄の釜のような暑さだった。開け放たれた窓から、生ぬるい風が店内をなぶる。 「エアコンの業者さんもすごく忙しいようでね。すぐに修理は難しいみたいなんだ」 「……だ、大丈夫です。暑いのは月曜倶楽部で鍛えられてるので」  苦し紛れにそう答えると、マスターは驚いたように目を丸くした。 「え。あそこ、まだエアコンないの?」 「ええ、文学に冷房は必要ないそうで……」 「まったく、月曜倶楽部の言いそうなことだね。直樹くんも可哀想に。ちゃんと水分補給してね」  苦笑しながらも、マスターはいつもの優しい笑みを絶やさない。  更に言えば、常連たちもいつも通り席に座り、中には汗をかきながらホットコーヒーを啜っている猛者までいる。すごい根性だ。  そんな俺を見て、マスターがふと思い出したように声をかけた。 「あ、直樹くん。ちょっと頼まれてくれるかい」 「はい?」 「悪いけど、これ、コウに持っていってやって。昨日から暑さでイライラしてるみたいだから。ついでに、少し話し相手になってやって」  見ると、冷えたアイスコーヒーの入ったグラスが盆に載っていた。  グラスの隣には、いつものようにガムシロップがひとつ、ミルクがふたつ添えられている。 「余生先生、イライラしてるのに俺なんかが話しかけて大丈夫でしょうか」 「大丈夫大丈夫。コウは直樹くんのこと、好きみたいだから」 「……好き?」  そ、そうだろうか。  さすがに何度か本の感想会をしたくらいで、好かれているとは思えない。 「さ、よろしくね」  やけに楽しそうに言うマスターに、俺は素直に盆を受け取った。  チラリと余生先生の席を覗くと、離れていても分かるくらい、彼がイラついているのが伝わってくる。  ともかく、いつも以上にパソコンの打鍵音が荒い。 「あの……、余生先生」 「なに」  恐る恐る声をかけると、短く、最低限の返事が返ってきた。  けれど思ったよりもトゲはない。それどころか、チラと俺の方を見てくれたことで、自分に向けた苛立ちではないのだと分かり、ホッと胸をなでおろす。 「どうぞ、アイスコーヒーです」 「……あぁ、サンキュ」  汗でぐしゃぐしゃになった前髪の奥から、ぼそっと礼を言われた。  思わず、顔がふわっと熱くなり盆を持った手にぎゅっと力が籠る。まさか余生先生からお礼を言って貰えるとは思わなかった。 「先生、こんな暑い中でも小説書いてるの凄いですね」  嬉しさに背中を押されて、つい言葉がこぼれた。すると、予想外の答えがかえってくる。 「……書いてない」 「え?」 「こんな暑い中で書く気起きない」  でしょうね!?  という、至極当然な返答にもかかわらず、「書いてない」という言葉にソワソワしてしまう。だとしたら、今日の更新分の【ダレハカ】は大丈夫なんだろうか。もうすぐ最終話だって、SNSに書かれていたのに。 (も、もしかしてエアコンのせいで、初めて定期更新が途絶えたり……!?)  コーヒーを片手に、俺は硬直したまま固まる。  そんな俺を見た余生先生が、ほんの少しだけ口元を緩めた。 「そんな顔しなくても、今日の分は予約投稿済みだし」 「っあ、え?そう、なんですか」 「てか、そんなギリギリで更新してない。普通に先の更新分は溜めてある」  あ、そっか。そうだよな。  ランキング一位の余生先生ともあろう人が、毎日ギリギリのタイムアタックなんてしているわけがないか。 「よ、良かったぁ」 「……そんなに楽しみ?俺の作品」 「楽しみです!!すごく、楽しみ!先生の作品がないと、生きていけないです!」  なぜか妙に優しい余生先生に、思わず勢い込んで答えてしまう。言ったあと、「やば、怒られるかも」と一瞬後悔がよぎったが、もう遅い。  すると、こちらをじっと見上げていた彼が、微かに目を細めて言った。 「おっも」  重い。確かに、重い。  でもその言葉には、これまでの「俺の話はいいんだよ」といった冷たい一蹴とは違う、どこか親愛のような気配が滲んでいた。 「あ、あっ、あの……!」  今なら、余生先生の作品の感想を言っても大丈夫かもしれない。  俺が感想を口にしようとした、そのときだ。 「早くコーヒーちょうだい」 「あ、はい。すみません!」  そういえば、まだコーヒーを渡していなかった。  慌てて盆を持ち直し、余生先生のパソコンの前にアイスコーヒーを置く。そんな俺の横で先生がボソリと言った。 「まぁ、続きが気になって更新止まったら生きていけないって、その気持ちは分かる」 「え?」 「めっちゃいい作品、見つけた。……ってか、この作者の話、全部いい。【ツク・ヨム】も捨てたもんじゃない」  ぼそぼそとくぐもった声で呟く余生先生の視線はジッとパソコンの画面に向けられ続けている。その目はどこか恍惚としていて、汗で濡れた前髪越しに覗く横顔は、妙に色っぽく見えた。 (余生先生に、ここまで言わせる作者が……【ツク・ヨム】に?)  思わずごくりと唾を飲み込む。  そして、もちろん、思ってしまう。 「な、なんて作者さんなんですか!?教えてください!」  誰だ。知りたい。そして、その人の作品を読みたい!  興味津々でパソコンを覗き込もうとした、その瞬間。  パタン。  余生先生が画面を閉じた。 「教えない。……てか、感想送んなきゃだから。あっち行け」 「あ、え?」  ぶっきらぼうな言葉にたじろぎながら、一歩後ずさる。 「あー、ムカつく。なんも分かってねぇ蝿共のせいで、更新止まったらどうすんだ。黙って見逃してやってりゃ調子に乗りやがって。クソクソクソクソ」  すると、余生先生が目を細め、低くボソリと吐き捨てた。その視線は俺ではなく、閉じられたパソコンへと向けられている。  彼は再びパソコンを開くと、俺には見えないように画面をズラし「クソクソクソ」と静かに、けれど憎悪を込めて呟き始めた。同時に、凄まじい勢いでキーボードを叩き始める。  その瞬間、先ほどのマスターの言葉が脳裏を過った。 ——昨日から暑くてイライラしてるみたいだから。 (……違う、余生先生は暑くてイラついてるんじゃない)  店内に漂う煙草の匂いが、夏の暑さと混ざり合い鼻孔をくすぐった。 ——教えない。  そう言って余生先生がパソコンを閉じる、その直前。  ちらりと見えた画面に、俺は目を奪われた。 ———— 【無限廻廊の勇者】 作者:ノキ ————  最初は見間違いかと思った。でも、そんなはずがない。  タイトルを付けるとき、被りがないか検索して確認した。それに、「ノキ」というハンドルネームも他に居なかったはずだ。それは、小学生のころ、直樹をローマ字で書いたとき、「noki」と書き間違えた事がきっかけで付いたあだ名が由来で……。  だから、間違いない。あれは—— (俺の、作品だ……)  気づいた瞬間、世界がぐらりと揺れた。 ——ってか、この作者の話、全部いい。 「っは、ぅ……」  胸の奥がぎゅうっと締め付けられ、体がジワジワと熱くなる。  呼吸すらままならなくて、頭がぼーっとする。ふと、俺は鼻の奥にツンと鉄の匂いを感じ、思わず片手で顔を覆った。  暑い暑い暑い熱い熱い熱いあつい。 (……は、鼻血でそう)  直視できず、俺はフラフラと後ずさった。  そして、「ダン!」と殴りつけるような激しい打鍵音を最後に、余生先生が椅子の背もたれに体をもたれかけた。そして、ふと天井を仰ぎ見ながら一言だけ呟く。 「これで、少しは蝿を叩けりゃいいが……」  その瞬間、ポケットのスマホが震えた。  チラリと見えた画面には、「感想が一件届きました!」という通知。 (えっ、うそ……これって、まさか)  ポケットの中で震えるスマホに、心臓が飛び出しそうになる。募る期待感と、そんなワケないという疑心感に、居てもたってもいられなくなる。  ただ、今はバイト中だ。  それに、皆が居る前で確認する勇気はない。 「あ、あの、マスター。俺、ちょっと……トイレに」 「えっ、直樹君?顔真っ赤だけど、大丈夫?」 「だい、じょうぶです!」  なぜか、いつも以上に心配そうな顔で見送ってくれるマスターに、それでも俺は盆をカウンターに置き、すぐさま店の奥にあるトイレへ駆け込んだ。  そして、フラつく体を支えるように壁に背中を押しつける。 「っはぁ、っは……コメント。コメント、余生、せんせいからの……」  まだそうとは決まっていないのに、俺の口は勝手なことを言う。  熱に浮かされたみたいに、顔を片手で覆いながらスマホをタップした、その瞬間。 ———— ↑のコメントしてるヤツ読め。 「読者は」とかデカい肩書きひっさげて偉そうに評論しやがって。てめぇ如き蝿一匹の感想を、さも全体の総意みたいに語ってんじゃねぇよ。 つーか、なんでこう作品叩くヤツはバカの一つ覚えみたいに大衆の権化ぶるんだろうな?「みんな」の中に隠れてねぇと何も言えねぇ羽虫は読むな。作品が摩耗するだろうが。せめて知的生命体になってから出直して来い、ボケ。 以下、ノキ先生以外読むな。 ノキ先生は天才です。 ノキ先生の言葉一粒一粒が、俺にとっては酸素で、心臓で、生命線で、宇宙です。え、ノキ先生って俺という人間の創造主……神?俺みたいな蝿が神に直接感想送れるなんてほんともう最高の世界過ぎる。 エアコンもぶっ壊れてリアルに地獄みたいなこの世界で、たったひとつ輝いているのがノキ先生です。 次回更新も五体投地正座土下座涙目で正気を失いながら待機します。 だいすきだいすきだいすきだいすきだいすきだいすき!!しゅきしゅきしゅきしゅきしゅきしゅきしゅきしゅきしゅきしゅきしゅき!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! 投稿者:ログイン外ユーザー ———— 「っ、あ……っぅ」  喉の奥から、思わず変な声が漏れた。  勢い余ってスマホを落としそうになるのを両手で支え、再びコメントを頭から読み直す。  あぁ、この一瞬でもう五回は読んだ。  でも、きっとあと百回は軽く読んでしまうだろう。 「っはぁ、っは……俺の作品を好きって言ってくれてた、この人が」  ——余生先生だった。  信じられない。  けど、こんな癖の強いコメントを送る人間を俺は他に知らない。というか、俺の書いた作品を一貫して褒め続けてくれたのは「この人」しか居ない。 「し、しぬぅ……」  目の奥がじんわり熱くなる。息を吸っても吐いても胸が苦しいのに、体中がふわふわ軽くなる。  そして、感想を読み返すたびに思い出される。 ——めっちゃいい作品、見つけた。  パソコンを覗き込むようにして、恍惚とした表情で画面を見つめていた余生先生の顔を。 「……はぁっ、はぁ、はぅ」  ふと、スマホの画面に赤いものがポタリと落ちる。  そのせいで、余生先生からの言葉がしっかり見えない。 「あ、れ……?コメント……よみにくい……なんだ、これ」  何かなんて、普段の俺ならすぐに分かっただろう。  ただ、目をしばたたいても視界全体が霞んで見えるせいで、情報の処理が上手く追い付かない。そんな俺に、扉の向こうから聞き慣れた声が響く。 「直樹くーん、大丈夫?なにかあったのー?」  あぁ、マスターの声だ。そろそろ店に戻らないと。  そう思った、その瞬間。  俺は、壁にもたれたまま、ズルズルとその場に崩れ落ちていた。 「……よせ、せんせい。おれも、しゅきぃ」  こうして俺は、人生で初めて、嬉しさのあまりトイレでぶっ倒れた。

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