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第20話 愛惜
レイが目覚めたときは、客室のベッドの上だった。昨夜の深酒が過ぎたせいか頭が少々重い。むしろ膝に力が入らないほど飲んだ割には、全く気分も悪くなかった。レイは起き上がろうとしたが、自分の胸を横断しているクラウスの逞しい腕が邪魔で起き上がれなかった。そして、眼鏡も見当たらない。どこにやったんだろうと思い周囲を見渡したが、見つからない。仕方なく隣で自分を抱きしめるように寝ているクラウスの顔を見ながら、寝ぼけた頭を働かせて昨夜のことを思い出そうとした。
クラウスとともに浴室でセリル製の洗髪剤の検証をし、クラウスの宣言通りに客室へ連行され、調律した。前回よりも執拗な責め苦に散々声を上げさせられて、朝方目を覚ました際には声が出なかった。先に目を覚ましていたクラウスが水を持ってきてくれて、口移しで飲まされたが、その時にまた彼のスイッチが入ったらしく、朝から二度目の調律となった。――あぁ、頭が重いのは単純な疲れか、と納得する。むしろ調律したことにより、昨日の酒は完全に抜けていた。調律され、魔力のコンディションが良くなると、身体の回復にもいい影響がある。逆に言うなら、調律してから寝たにも関わらず、疲れが残るぐらい2回戦が尾を引いている、つまりそういうことだ。
さて、眼鏡の場所を考えると、浴室内に置いてきた可能性が高そうだ。取りに行こうと胸の上に横たわる重い腕をそっと持ち上げると、クラウスの瞼がゆっくりと開いた。持ち上げたはずの腕が、レイの頭を抱えそのまま彼の広い胸に引き寄せた。起きたのか、とクラウスの顔を見上げると、開いていた目が何度か瞬きをして、また閉じられてしまった。
「クラウス、流石に起きよう。モートンが来る」
レイが普段よりわずかに低い声でそう言うと、クラウスは一度レイを離してころりと上を向き、反対側にあるサイドテーブルの上から一枚の紙を摘まみ上げてから、また先ほどの体勢に戻ってきた。再び腕にレイを抱きながらも、摘まみ上げた紙をレイに渡してクラウスは言ってのけた。
「もう来ていたみたいだ」
「……は?」
受け取った紙に書いてある文字を、眉根を寄せて目を細めながらレイは読んだ。
――お疲れのようなので、お昼頃にまた参ります。サンドイッチはキッチンにありますので、ご自由にお召し上がりください。
レイは手をわななかせ、目を瞑っているクラウスの顔にその手紙を押し付けた。
「どこにあったこれ」
クラウスが「ぅ」と小さく息を漏らすが、そのままの状態で答えた。
「ドアに挟まっていた」
ドアに挟まっていた。その一言を反芻して、レイは恥ずかしさのあまり顔を伏せた。ありのままをモートンが察している事実に、顔が上げられない。
「レイ、苦しい」
「黙れこの下半身節操なし!」
顔に手紙を押し付けられたままのクラウスがしれっと訴えてきたので、レイはそのまま手に力を込めた。皺が浮かぶほど、手紙がぐしゃりと音を立てる。クラウスがレイの頭に回していた腕を離したので、レイはそのままベッドから降りた。
立ちあがって自身の状態を見てみるが、腹の中の気持ち悪さもなくシーツも乾いている。これはレイが寝ている間にクラウスからいろいろと整える魔法を施されたことに他ならない。
レイは複雑な気持ちになった。疲れていたとはいえ、近くで魔法が行使されたことに気付けなかったという事実が、訓練を受けた魔法使いとしての矜持を少し傷つけ、裏を返せば、それだけクラウスという存在が自身の中で安全な対象として確立していることでもあった。しかし、クラウスがレイに魔法を施された側だったとしたら、きっと彼は深い眠りの底にいても目覚めたのだろうと思うと、やはり気付けなかったことが悔しかった。
視界の端に、ベッドの上でもぞもぞと動いて起き上がったクラウスが映り、そちらに目を向けて、レイは気付いた。ベッドに、二人の魔力の香りのようなものが沁みついている。以前マルキオン教授の教授室で見た、あの爆心地のようだと感じた「調律痕」に劣らないそれに、思わずレイは顔を覆ってしゃがみ込んだ。――誰か頼む、この調律痕の消し方を教えてほしい。
「もうここでは絶対しない」
レイがぽつりと呟いた瞬間、クラウスがベッドから転がり落ちた音がした。
眼鏡がないレイの手をクラウスが引いて、二人で浴室に向かった。昨日脱衣所に置きっぱなしにしてあったタオルはすでに無くなっていた。恐らくモートンに回収されたのだろう。
浴室を覗くと、備え付けの棚に眼鏡が放置されていた。普段はそんなことをしないのに、どうやら昨日はずいぶん緊張していたらしい。そう思うと、自身では冷静なつもりだったのに、少し期待していた気持ちがあったんじゃないかと、なんだか気恥ずかしくなった。
バスローブで眼鏡の水滴を拭いてかける。はっきりとした視界でクラウスの表情が少ししょぼくれていたが、レイは無視して脱衣所に戻った。洗面台の前に立って顔を洗おうとして気付く。全身に赤く小さなうっ血痕がついている。首筋のそれは髪を結ばなくても確実に見える位置だった。もう一度クラウスに視線を向けると、今度はクラウスが視線を逸らした。そっちがその気なら、もう一度セリル製の洗髪剤を使ってやろうかとも思ったが、あまりこちらとしては得しない選択だなと思って、違う嫌がらせを考えようと思った。
洗面台で顔を洗い、客室に戻って自分の荷物から新しい襟付きのシャツを着る。ボタンを一番上まできっちりと留めても、やはりキスマークはギリギリ隠れなかった。仕方なく、レイは客室の隅に置いてある自分の旅行鞄から紺色のクラバットを取り出して、首に直接巻いて端をシャツの中に入れ込んだ。やっと隠れた所有権を主張する痕に安堵して、髪をいつものようにだんご状に結った。
ルミアの魔法薬店に来てから約1か月経つというのに、来た当初に切ろうと思っていた髪を、未だにレイは切っていなかった。昨晩、髪を洗っているときに、クラウスにも雑に切ったことがバレてしまったところだ、いっそ整えてもらってもいいかもしれない。
「切るのは王都に戻ってからでいいか」
「いつ?」
後ろで着替えていたクラウスが間髪入れずに聞いてきて、レイは思わず後ろを振り返った。彼の真剣な眼差しに、レイはどう答えようか迷った。正直、店を休みにしていいと言ったルミアの言葉をそのまま受け取るなら、馬車の手配が済み次第すぐにでも王都に向かえる。ただ、王都についたらこうやって二人でいる時間は取れなくなってしまうだろう。昨晩、モートンの策略により突如始まったディナーで、クラウスは帰るタイミングが合うなら一緒にと言ってくれた。つまり、クラウスの登城予定はもう決まっている、ということだ。
「王城へはいつ?」
聞かれた言葉に、問いで返してしまうのは気が進まなかったが、クラウスはこちらの意図を察したのか、苦い顔をして答えた。
「10日後だ」
「レーベンシュタイン公爵領の転移港の使用予定は? まさか馬車ではないだろう?」
「……5日後。だが、同行者が一人くらい増えても構わないだろう」
クラウスの口ぶりに、流石のレイも苦笑をこぼした。全行程を馬車で行くとしたらもう明日出発となるタイミングだったが、転移港があるレーヴェンシュタイン公爵領の中心地へは馬車で3日の距離となる。ただ、転移港の使用は通常半年前に予約をしなければならないものだ。理由としては転移に使う魔力石に限りがあるためだ。使用する魔力石の確保をするという点で、半年の猶予が必要になる。レイがルミアの店まで来るにあたり転移港が使用できたのも、ルミアがいつでも使えるようにと前払いで高級な魔力石を転移港へ納めているからだ。その魔力石だって、手に入れるのに相当な時間と金が必要となる。これほど急な追加は、並の手間では済まない。そして、店を休みにするのにルミアが納めた魔力石を使用させてもらうのも気が引けた。
「いや、俺は馬車で帰るよ。もともとその予定だったし」
そう言うと、クラウスの表情がまた暗くなった。眉が少し寄って、唇が固く結ばれている。――レイの気持ちも同じだった。でも、そこに甘えるわけにはいかない。
レイはクラウスに近付いて、左手を差し出した。クラウスはその手を見て、一呼吸おいてから手を重ねてくる。クラウスの魔力が寂し気にレイの手を包んできた。澄んだ音色の深く大きな共鳴音を聞きながら、レイは解析魔法を行使して、クラウスに魔力を流した。ひと月前にこうやって始まった関係が、いつの間にか心を寄せ合い、調律するような仲になるなんて思ってもみなかった。魔力のコンディションが絶好調なおかげで、クラウスの身体情報が手に取るように分かる。炎症反応もない、魔力の汚染も感じない。
レイは頭の中でルミアが診察するときに使っていた医療魔法に構成を切り替えた。レイとクラウスの間に白い光を放つ魔法陣が浮かび上がる。魔力回路が唸るように熱くなるが、調律した後のクラウスの状態を、どうしてもレイは知っておきたかった。魔法陣越しに見るクラウスの健康状態が、次々とレイの脳裏に流れ込んでくる。燃えるように体が熱くなるが、レイは意地でも魔法の行使をやめなかった。クラウスの顔に驚愕の色が広がる。振りほどこうとするクラウスの手をレイは両手で掴んで離さなかった。
「レイ! やめろ!」
制止の声を無視し、隅々までクラウスの体をスキャンして、レイはやっと魔法の行使をやめた。膝から崩れ落ちるレイをクラウスが抱き留め、ベッドへ運ぶ。クラウスの心配顔を見て、レイは大きな声を上げて笑った。
「笑い事じゃない!」
クラウスが怒気を孕んだ声で言うのを無視して、レイは昨晩クラウスが枕元に置いた発熱抑制剤のケースを指差した。クラウスがそのケースを手に取って渡してくる。昨夜は施錠魔法をかけ忘れたため、ケースはそのまま、すぐに開いた。発熱抑制剤を口に放り込んで、噛み砕く。体の熱が少し和らいだが、やはり医療魔法は魔力回路への負荷が強かったらしく、汗が引かない。……これだからクラバットは嫌いなんだ。
レイはクラウスを指差した後、自身のこめかみをトントンと人差し指で叩いた。
「覚えたからな、全部。次会った時にどれか一つでも悪い数値で出してみろ。身体能力強化魔法をつかって全力でぶん殴るからな」
上がる息を抑えながら言うと、クラウスは苦い顔をしながら口を開いた。
「……なんで君はそう、無茶ばかりするんだ」
その一言に、レイは苦笑を浮かべた。寝ているレイの隣に腰かけてこちらを覗き込んでくるクラウスの前髪をそっと指先で掬って、レイはしっかりと答えた。
「生きるってのは、俺にとっては無茶をするってことなんだよ。心配だったら、ちゃんと会いに来い。いつでも俺は待ってるから」
クラウスの瞳が揺れている。寂しいと、離れたくないと訴えてくる。こんなに感情を表に出す奴が、よくもまぁ諜報部なんていられるもんだと、レイは思った。
クラウスの手が伸びて、眼鏡が外される。視界がぼやけてきちんと見られないにもかかわらず、クラウスはさらにレイの目を手で覆った。睫毛にクラウスの掌が当たって、レイは暗い世界で目を閉じた。唇に柔らかな感触と温かさがのる。それは幽かに震えて、ただ、ひたすらに愛しさだけがそこに残った。
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