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第22話 帰還

 王都フィルドンに到着して、レイは自身の寝床と荷物置き場と化しているアパートメントに荷物を押し込むと、手土産だけを持ってすぐに王立魔法大学魔法薬学部の研究棟へ足を運んだ。大学へは長い坂を上がって行かねばならず、徒歩にしておよそ20分の距離だ。馬車の御者が気を利かせて大学まで乗っていくか聞いてくれたが、流石にレーヴェンシュタイン公爵の家紋が入った馬車を大学に横付けするのは気が引けた。いや、学生アパートの前に横付けされるのも正直に言って死ぬほど気まずかったが、昼を回った時間帯と言うこともあり、皆学校に行っている時間だと自身に言い聞かせ、素早く馬車を降りたのだ。  国立魔法大学の敷地に入ってから、レイはマルキオン教授へ通信魔法機器を起動し、メッセージを送信した。――教授、今研究室にいます? お土産はレーヴェンシュタイン公爵領産のワインです。  そのまま研究棟に向かって歩いていると、通信魔法機器がメッセージの受信を知らせてきた。通信魔法機器を確認すると、マルキオン教授から簡素なメッセージが入っていた。――教授室に来て。  レイはメッセージを確認し、通信魔法機器を鞄にしまうと、研究室ではなく本棟にある教授室へ向かった。マルキオン教授の教授室に行くのは、先日の国安保の一件以来だ。例のソファのことを考えるとあの部屋に入るのは少し憚れるが、もうあの「調律痕」が消えているかどうかを見るのにもいいかと思って、心を前向きにして歩を進める。どうか、上書きされていませんように。  マルキオン教授の教授室の前でノックをすると、中から「どうぞー」といういつもの声が聞こえてくる。レイはドアをあけると、デスクに座って書類に埋もれている薄紫色の髪が見える。ここまで荒れた状態のこの部屋を見たのは久しぶりだったので、レイは一度ドアを閉めようとした。 「たすけてーレイくーん」 まだ一言も発してない上に書類の山に埋もれて視界にも入っていないだろうレイにマルキオン教授は声をかけてきた。レイは半ば諦めたように部屋に入ってからそっとドアを閉めた。 「なんですか……この状態は」 来客用のソファの前にあるローテーブルに手土産のワインを置いて、レイは書類の山を覗き込んだ。レーヴェンシュタイン公爵領で製造された呪いの浄化薬についての考察について書かれた山と、半年後の論文発表に向けた素案、中間考査で学生から提出されたレポート用紙……時期的に色々重なっているのが分かり、レイは約2週間後に控えたディートリヒ卿の初公判のことを考えて、心の中で教授に謝った。 「手伝って……」 書類の山に囲まれて涙目のマルキオン教授に懇願され、レイはため息をついた。 「何で助手つけないんですか」 「ちょっと前まではそんな話も出てたよ。でもファーレン……サルベルト教授が嫉妬しちゃう」 魔法医学科のサルベルト教授のファーストネームを漏らすマルキオン教授の言葉に、レイはサルベルト教授を思い浮かべたが、あの大人の余裕を見せる教授が助手という存在に嫉妬なんてすると思えなかった。 「あのサルベルト教授が?」 レイが怪訝な顔をしてマルキオン教授を見ると、薄紫色の柔らかそうな髪をかき上げて、マルキオン教授はどこか拗ねたような目でレイを見返した。 「僕はレイ君を助手に欲しいって大学に言ってあったの」 「初耳ですけど」 「だから、国安保の一件で彼が君に聞いたでしょ? 君が僕の助手かって」 言われて記憶を遡る。そう言えばそんなことを言われていた気がする。確かにあの時のサルベルト教授は少し殺気立っていた気がしなくもないが、それは大事の前だからだと思っていた。 「なんだかんだ面倒見が良くて、身を粉にして働いてくれて、信頼できる人なんてなかなかいないからさー。僕は君が欲しいの」 「そういう誤解を招く言い方をするから、サルベルト教授が嫉妬するんでしょう……というより、サルベルト教授を煽るのに、俺を使うのやめてくれません? この前のもそうでしょう? あの、サルベルト教授の部屋で追跡魔法の話したとき」 レイは眠たげに首を傾げるマルキオン教授に、マーベック氏が持ってきた案件の次の日にサルベルト教授の教授室で話をした時のことを伝えた。明らかに普段そんな距離の詰め方をしない癖に、あの日、わざわざサルベルト教授の前でレイと同じソファに座り、じわじわと距離を詰めてきたマルキオン教授を思い出して、レイはジト目でマルキオン教授を見た。言い終わって、マルキオン教授は「あー」と興味なさげな声を上げた。 「そんなこともあったね」 「もうやめてくださいよ」 伸びた前髪を面倒くさそうにかき上げながら、まるで自分のしたことではないかのような顔をして言うマルキオン教授に、レイは呆れまじりに念を押した。  書類が飛ばないようにと文鎮替わりに置かれていただろうクリップ型の髪留めをマルキオン教授に手渡し、近くにあったペンケースを代わりに書類の山の上に置くと、レイは学生のレポートの山を倒さないように魔法で持ち上げて、移動させた。ひと山移動させるだけで、マルキオン教授の顔が見えるようになる。マルキオン教授がまるで救世主を見たと言わんばかりに目をきらめかせながらこちらを見ているので、レイはローテーブルに置いていた手土産を見せながら伝えた。 「これ、浄化薬のお礼って、本人から」 「え、そういうことだったの? この苦労をそんな安酒で賄えると思ったらそうは問屋が卸さな――」 マルキオン教授がそう言い始めたところで、レイはワインを包んでいた外装を剥がしてラベルを示すと、マルキオン教授が手に持っていた髪留めをぽろりと落とした。 「うっそ……『ラ・アウレ・ミュリ』? え、本物?」 「でしょうね」 「僕の年収2・3年分ぐらいしない?」 「でしょうね」 酒に明るくないレイですら知っている銘のワインに、マルキオン教授の手が震えている。突然立ち上がって自分を抱きかかえるように手で体をさすり出すマルキオン教授を見ながら、レイはワインをまたローテーブルに置いた。 「コワイコワイコワイコワイ! こんなのぽんっと出してくる人をレイ君診てたわけぇ!?」 「いや、俺も最初知らなくてですね……」 「やだー! この伝説の魔術師の家系、スケールが違い過ぎてやだー!」 叫ぶマルキオン教授の長い脚が自身の椅子を蹴飛ばし、その衝撃に耐えられず書類の山がばさりと倒壊した。きれいに広がる書類の山を見下ろして、マルキオン教授は冷静さを取り戻したのか、完全に無表情のまま何事もなかったかのように魔法で書類の山を元の形に戻していく。 「……で、誰なの?」 椅子に座って書類に向かいながら、教授が声をかけてくる。レイも同様に学生のレポートに目を走らせながら、答えた。 「今回の被害者ですよ」 「僕知らないもん。警察が教えてくれるわけでもないし」 「そうなんですね」 黙々と学生のレポートを読みながら、メモを貼り付けてレポートの要約と足りないポイントを書き出していると、またマルキオン教授が話しかけてくる。 「……まさか、君の封印されし伝説の杖を解き放った人?」 その一言に、レイのペン先が悲鳴をあげて、折れた。カランと音を立てて床に折れたペン先が跳ねる。しばしの沈黙の後、マルキオン教授がデスクに顎杖をついてこちらを見た。 「……患者を食べるって、君」 「食べてません」 レイは羞恥に震えながら、ローテーブルの下に落ちたペン先を拾った。 「食べられたんだ」 ゴッ レイの後頭部がローテーブルを直撃し、そのまま悶絶する。痛みによるものか、羞恥のせいか、目尻に涙がにじむ。絶対助手なんかにならない。こんな上司嫌だ。  再び頭を打たないように慎重にローテーブルの下から出て呆れ顔のマルキオン教授に文句を言おうと見上げると、予想とは裏腹にマルキオン教授は真剣な眼差しでこちらを見ていた。 「囲われるつもり? レイ君」 マルキオン教授の言葉に、レイは誤解を正すか迷った。高級なワインをお礼と言って渡せる程の人物と、調律できるほど魔力の相性もいいとなると、やはり魔法薬士としては「貴族に囲われる」ことを考えてしまうものらしい。レイはそんなつもりは毛頭なかったし、むしろこんな短い間で恋仲になっているなんて思わないだろう。 「……俺は、この大学で研究を続けたいですよ。教授がいる間はね」 レイの口から出た言葉は本心だった。先天的魔力回路の欠陥に対するの治療薬の研究について、たくさんの助言をくれ、後押しをしてくれている人物だ。情に厚く、実力のあるこの人の下で研究ができるというのは、レイにとってかけがえのないものに違いなかった。  マルキオン教授がじっとレイを見つめた後、視線を切って書類に視線を落とした。マルキオン教授の心中を察するには至らなかったが、とりあえず良しとしてくれたようだ。レイはソファに座り直して、折れたペン先をペン軸に魔法で接着した。ふと、以前来た時に染みついていた調律痕をソファに探すが、見当たらない。とりあえずひと月あれば消えるようだが、個人差があったらと考えると、来月あたりに一度ルミアの魔法薬店に行った方がいいかもしれない。自身とクラウスが残してしまった調律痕がきちんと消えているかどうかを確かめるために。  しばらく二人が走らせるペンと紙をめくる音が部屋に響いた。レイが学生のレポートを6人分見終わったあたりで、マルキオン教授がデスクにペンを投げた。 「もうやだ。帰りたい」 マルキオン教授がデスクに額を擦り付けるように項垂れる。正直、マルキオン教授の疲弊具合は魔力を確認するまでもなく、明らかに酷かった。いつものハツラツとしているマルキオン教授の元気さは皆無で、恐らく中間考査によるサルベルト教授との逢瀬も叶っていないのが原因だろうとレイは思った。 「サルベルト教授のところに行きます?」 「だめ。彼も今は忙しい」 レイの提案はすぐさま否定された。確かに、中間考査が絡んでいると教授はどこも忙しいだろう。彼らの関係がいつから始まったのかは知らないが、やはり後継者が関わると同性婚ができない現状では、二人の生活が噛み合うことはないのだろうか。そう思うと、レイも自身の未来を見ているようで、何とも言えない気持ちになった。  レイがクラウスに突き付けた「3か月間気持ちが変わらなかったらプロポーズしろ」という話は、大分危ない橋ではあった。ディートリヒ卿の初公判がおよそ2週間後。通常、貴族裁判は初公判から決着まで半年以上かかる。特に今回は国家の中枢を担う貴族の犯罪であり、レイはもっと長引くだろうとは踏んでいた。しかし、その間にクラウスが公爵家の後継者として指名されることがあれば、レイはもうクラウスとの未来を望むことはできなくなってしまう。――3か月先に、ただ「選ばれなかった」という未来が待っているかもしれない。レイは自身を慰める正当な理由を用意した。ただ、自尊心を守る、それだけのために。 「……いったん、帰ったらどうです? 初公判までに、体壊しますよ」 レイは恩師の酷い姿に、ボロボロになった将来の自分を重ねていた。マルキオン教授が顔を上げる。その目を見て、レイはすぐさま立ち上がって廊下に出た。 「――待って」 マルキオン教授の制止の声を聞かず、レイは向かい側の教授室のドアをノックした。しばらくして、教授室のドアが開かれる。無言で中から出てきたサルベルト教授を見上げると、レイはため息をついた。 「二人して、死相が出てるじゃないですか」 「開口一番、言ってくれるな。レイ・ヴェルノット」 普段きちんとしているサルベルト教授が、恐らくうたたねをしていたのだろう頬にくっきりと白衣の皺の痕を付けて目の前に立っていた立っていた。艶のある短い黒髪も、頬に皺がついている方だけぼさついている。サルベルト教授の魔力を観察すると、表面がすかすかして風通しが良さそうな荒れ具合なのを感じる。レイを後ろから追ってきたマルキオン教授が足を止めた。気まずそうにサルベルト教授とマルキオン教授が見つめ合っている。レイは二人の顔を交互に見た後、何も言わずに一人マルキオン教授の教授室へ入り、内側から鍵をかけた。  ソファに座って学生のレポートを読み始めると、廊下の外で防音の結界が張られたのを感じて、レイはやれやれと言いたげに一度頭を掻いた。――できることなら、手早く戻ってきてくださいよ。俺だって暇じゃないんですから。

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