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第29話 睦言
クラウスは話すと言ってから、どこから話せばいいのかと迷っているようだった。レイはただ隣に座って、クラウスの左手の上に右手を重ねてクラウスの横顔を眺めていた。細い目が伏せがちになり、睫毛の長さが際立って見えた。なんだかそれが儚げに見えた。
「レイ」
唐突に名前を呼ばれ、レイは一瞬反応が遅れた。瞬きの回数が自然と増えたのを見てか、クラウスがレイの頬に手を添えて唇に軽くキスをした。
「疲れているのに、すまない」
「いや、大丈夫だ。普段ならもっと大変だ。なんて言ったって、応急処置は無いからな」
笑みを浮かべて見せると、クラウスもつられて笑った。本日何度目かの防音・盗聴防止用の結界を張って、クラウスはようやく話し始めた。
「――君の言ったとおりだった。ここ2週間ほど、私は王宮に呼び出されては、レーヴェンシュタイン公爵家の後継者になることを推されている」
レイはその一言に、そっと目を閉じた。やはりそういうことだったか、と心に影が差す。重ねていたクラウスの手がレイの指を絡め、しっかりと握り始めた。絶対に離さない、その意思を伝えようとするかのように。
「毎日嫌がらせのように召喚され、長時間拘束され、断るとまた翌日に呼び出される。私は、もう心に決めた人がいることと、同性婚の許しがない限り首を縦に振ることはないと伝えた。それをオルディアス王は面白そうに見ては、ただ黙っているだけで了承してくれない。こちらが折れるのを待っているのだろう」
「クラウスの直属の上司に当たるんだろう? 調律の必要性もご存じだと思うが」
オルディアス王は、非魔法使いだ。しかし、仕える魔法使いが調律の重要性を説き、第3代オルディアス王が魔法使いの同性婚を認め、長く善政を敷いたことから、歴代の王もそれに倣い否定はしてこなかった。
クラウスもレイの言葉に苦々しく頷いた。
「……『ならば、囲ってしまえばいいだろう。そんな者はごまんといる。何が問題なのか?』とのことだ。……あのニヤケ面は絶対、私の反応を見て楽しんでいる」
細い目が更に鋭く細まり、諜報部の鉄仮面がそんなことを言い始めたからでは、と思わなくもなかったが、レイとしては自身のせいでそんなことになっていると言っても過言ではないため、要らぬ苦労をさせてしまっていることに罪悪感を覚えた。
指を絡めた手を持ち上げて、クラウスがレイの甲にキスを落とし、目をじっと見つめてきた。
「……約束は、覆さなくていい」
「でも」
クラウスは穏やかな笑みを浮かべながら、右手の人差し指の先をレイの唇にそっと置く。
「レイの不安を除くのが、私の使命だ。それができなくて、どう君に惚れこんでもらえると言うんだ。……結婚したら、確実に君は背負わなくてもいい責任を背負おうとするだろう?」
レイの唇から、クラウスの指が離れる。図星を付かれ、レイの視線が下がった。
公爵家を継ごうが継がずに済もうが、クラウスは今までと同じように暮らすことは難しいだろう。それを支えるための力が、レイ自身にはなかった。――あぁ、不甲斐ない。息が詰まりそうだ。
「これは私のエゴだ。君がくれた譲歩を……後悔にしたくない」
「そのせいで、今要らぬ苦労を背負ってるのは、クラウスじゃないか」
レイがそう反論すると、クラウスは一瞬黙って、喉を鳴らしながら笑い始めた。何がおかしいんだと見上げると、クラウスは眉を下げて笑っていた。レイは、こんなに心の底から嬉しそうに笑うクラウスを初めて見た。
「――いや、すまない。私は、君に愛されているんだな、と……嬉しくて」
意味が分からず、レイが困惑していると、繋いだ手から、クラウスの魔力が嬉しそうにレイの腕を這いあがり、全身を包み始める。喜びに満ちたクラウスの魔力は、オーバーヒート後の体にはとても心地よかった。
ひとしきり笑ったクラウスが息を整えて口を開いた。
「……君と一緒にいるための“要らぬ苦労”とは、つまり……もう君は“そんな苦労をさせずとも一緒になるつもり”ということなのだろう?」
指摘を受けて、言葉を反芻し、意味を理解したレイは、思わず口元を押さえた。こぼれてしまった本音に、顔がみるみる熱くなっていく。そんな反応すらも、クラウスは嬉しそうに見つめてきた。
「気を引き締めねばならない時に、不意に幸せを口に放り込まれた気分だよ」
「…………おいしいかよ」
「あぁ、すこぶる」
その一言で、レイは撃沈した。眼鏡を外し、ソファの背もたれに顔を埋めて、クラウスに見られないようにした。「それは、よかったな」と呟いたが、くぐもって相手に伝わったかは分からなかった。
「もっとくれと、せがんでみてもいいだろうか?」
「調子に乗るな。まだ、話は終わってないんだろう?」
ソファから顔を上げて、レイは眼鏡をかけた。クラウスは顔のニヤケを抑えようと頬を揉み始め、わざとらしく大きく深呼吸をした。数秒、目を瞑って、また開いたときには普段の顔に戻っていた。
「……敵の正体は、まだ掴めていない。ディートリヒの残党による報復かもしれないし、レーヴェンシュタイン公爵家に恨みをもった者の犯行かもしれない……ただ、現時点で最も有力なのは、中立を貫いてきたレーヴェンシュタイン公爵家が、国王支持派になることを是としない者という見方だ」
レイはクラウスの説明に、疑問が残った。ただ、話の腰を折らない方がいいかと思って黙っていたが、クラウスはレイの反応を見てか、こちらが口を開くのを待っているようだった。どこまでも自分に甘い男に、レイは苦笑しながら思ったことを口に出した。
「……レーヴェンシュタイン公爵家は、本当に中立だったのか?」
「――と言うと?」
嬉しそうに聞き返してくるクラウスに、レイはやはりな、と思いながら続けた。
「クラウス、君が諜報部に入ったということが、そもそも国王を支持していることになるだろう? そうでなければ、レーヴェンシュタイン公爵がそんな判断を許すとは到底思えない」
レイの一言に、クラウスは嬉しそうに頷く。
「私の恋人は、話が早くて助かる。……レーヴェンシュタイン公爵家は、歴代の公爵全てが中立という皮を被った国王支持派だ。ただし、国王自身が牙をむかない限り、な。……だからこそ、ディートリヒは、後継者として公爵に目をかけてもらえなかった」
「なんだって?」
驚愕の声を上げるレイに、クラウスの真剣な眼差しがレイに向く。
「ディートリヒは、第二王子派と繋がっていた可能性がある。――だが、まだ裏が取れていない」
レイは眉をしかめた。ディートリヒについて考えると、少し話しただけでも野心に燃えるタイプであるのがよく分かる。第二王子は側室の子だ。正室の子である王太子に王太孫もいる以上、王位が第二王子に移ることはないだろう。にもかかわらず、野心家であるディートリヒが、将来を見据えて繋がる相手が王位を持たない可能性が高い第二王子というのは、少々引っかかる。しかし、もしそれが事実なら――彼は何を得るつもりで、あえて沈みゆく船に乗ったのか。疑問ばかりが深まってしまう。
レイは、眉頭に拳を当てながら口を開いた。
「ディートリヒ卿は、レーヴェンシュタイン公爵家が国王支持派ということを、知らされていなかった……?」
もしそうであったなら、彼が渇望した公爵からの信頼を得られなかったのは、なんとも不運としか言いようがない。クラウスは暗い面持ちで「分からない」と呟いた。
「正面切って本人に聞けることでもない上、真実を知っているはずの父は長く意識が混濁している。それに……全てが、もう遅すぎる」
クラウスの声に諦念が乗る。レイを包んでいた魔力がそっとクラウスの方に戻っていくのを感じ、繋いだ手をぎゅっと握った。それに対して、クラウスが自嘲気味に笑うので、レイはその愁いを帯びた藍色の瞳を見つめた。
「……先ほど捕まえた非魔法使いの暗殺者だが、本部に連行し現在事情聴取を行っている。ただ……難しいだろうな。宣誓魔法の痕跡が見つかった」
レイはため息をついた。非魔法使いが宣誓魔法を使用する場合、宣誓魔法の陣を体に彫り込まれる。その陣に宣誓魔法を破った際の報復について書かれていることが一般的だ。宣誓魔法は、あくまでも自戒の魔法だ。本人が希望しない限り、施した魔法使いが呪われる禁忌の魔法へと変貌する。それが彫り込まれている以上、恐らく強制されたものではなかったのだろうと思いたい。
「報復内容は?」
「“あえて口にするのも憚られる”」
それは、魔法使い特有の隠語だった。彫り込まれた内容が「裏切りには死あるのみ」というものであることが分かり、レイは小さく息をついた。
クラウスが感情を隠して口にした一言に、レイはクラウスの宣誓魔法嫌いはこういう事例を幾度となく見てきたからなのだろう、と悟った。
「実質尋問は不可能、か」
レイの一言に、クラウスが頷いて同意する。
宣誓魔法により命を握られている者へ記憶の追跡魔法を行使した場合、相手の命は絶たれることとなる。それは殺人と同義だ。魔法使いが絡む事件は、こういうことが起こるから難航を極める。
「何はともあれ、護衛が派遣されるまではここにいてほしい」
クラウスが微笑みながらレイの頬に手を添えてくる。触れたところから全身に、簡単な洗浄魔法がかけられた。汗や土埃などが綺麗に取り払われる。確かに今から風呂に入るのも時間的な制約があるし、身綺麗になった方が寝やすい。――と思ったところで、ふと気付いた。
「……オーバーヒート後だからな?」
「分かっている」
少し残念そうな顔をしながらクラウスが肩をすくめた後、ベッドの上に置かれた2セットの寝間着を持ってきた。クラウスのベッドの上に2セット用意されていたという事実に、レイは頭が痛くなった。
「だが、添い寝した方が回復は早いだろう?」
クラウスがレイのサスペンダーに手をかけたところで、レイはその手を振り払った。
「自分でやる!」
そう言いながら脱ごうとすると、じっとこちらを見てくるので、クラウスが持ってきた寝間着を綺麗な顔めがけて投げつけた。顔面で受け止めたパジャマにそのまま顔を埋めて、噛み締めるように笑い始めるクラウスを放ってレイは手早く着替えた。
「……もういいぞ」
なんだか恥ずかしかったが、律儀に後ろを向いていたクラウスに念のため声をかけると、クラウスがやっと着替え始めた。自分は見せなかったくせに相手のを見るのは違うかと、自身が着ている寝間着に目を落とす。とても肌触りが良く、織の綺麗な白い寝間着で何故だかサイズがぴったりだったのが解せない。男物の寝間着で、たまたまあったというには新品のようだし、自分はレーヴェンシュタイン公爵家の誰とも体格は合わないだろう。これは自分用に用意してあったのは明らかで、視界の端で袖を通したクラウスの寝間着とまるで一揃いのようだった。
誰が用意したのかなんて分かりきってはいるが、ここまで用意周到だとなんだか腹が立つ。寝相と偽って蹴り飛ばしてやろうか。
クラウスが先ほどまで腰につけていたポーチから、あのオーナメントを取り出して光に透かして眺め始めた。
「三か月……いや、もう実質二か月後のプロポーズか……これは、頑張らねばならないな」
嬉しそうな声色のクラウスを、レイは赤い顔でねめつける。クラウスの横顔を少し歪ませてやりたくて、レイは眼鏡の位置をわざとらしく直した。
「……それ、一応中に入ってるの、鎮静作用のある魔法薬だから」
「ほう? 使えないと言っていたと記憶しているが、作用があるものが入っているのか」
光に透かして見ているクラウスに、今だと一言投げかける。
「使用期限は3か月。だから、手元に置いておいていいのも、3か月だ」
レイの一言で、クラウスが硬直した。細い目が見開かれたままゆっくりと視線がレイに移動してくる。そのまま物言わぬ像のようになったクラウスに、レイはにっこりと微笑みかけながら言ってのけた。
「当たり前だろう? 使用期限の切れた薬は破棄しなければならない。それは魔法薬も非魔法薬も同じだ。……プロポーズが終わったら回収するからな」
さっさと一人ベッドへ移動するレイの後ろをゆっくりクラウスがついてくるのが気配で分かる。レイは髪紐を解いて眼鏡を外し、サイドテーブルに置いた。掛布団の中にもぐりこむレイの傍らで、クラウスが絞り出した声は震えていた。
「……なんとか、手元に残しておく方法は」
「ないな。諦めろ」
「レイ、後生だ」
オーナメントをサイドテーブルに置いて、結界を解除すると、クラウスが掛布団にもぐりこんでレイを背後から抱きしめてきた。背後からクラウスの魔力が縋りつくようにそっとレイを包み始め、レイは肩を震わせながら笑った。さぁ寝ようと思ったところで、ふと、明日のことを思い出して、レイがくるりと反転してクラウスの方を見ると、今にも泣き出しそうな顔をした可哀想なクラウスが見えた。
「オーナメントのことは置いておくとして、明日のことなんだが」
「置いておかないでほしい」
「どうしても外出は難しいか?」
クラウスの抗議をさらりと無視して、レイは話を続けた。しゅんとした顔のままため息をついて、クラウスが口を開く。
「何かあるのか?」
「明日、服を一式取りに行かねばならない」
首を傾げるクラウスに、レイはマルキオン教授に言われて裁判所に行くための服を一式用意し、明日の朝仕上がることを伝えた。少し悔しそうな顔をしたクラウスが「私も一緒に選びたかった」とぽつりとこぼしたあと、しばし考え込んでから答えた。
「呼ぼう」
「は? 呼びつけるのか?」
「そうだ。レイを店まで送り届けることはできるが、そうすると帰りに付き添えない。ここで確認まですれば問題ないだろう。私も同席できる」
流石の貴族的な発想に、レイはため息をついた。レーヴェンシュタイン公爵家の頼みとあれば、あの通りにある店は動かざるを得ないだろう。直し作業すら急がせているのに、重ねて申し訳ないことをしてしまうと思っていると、クラウスの顔がレイの首筋に埋まる。
「あ! 痕はつけるなよ! 明日見られるんだからな!」
唇が触れた瞬間、レイはとっさに言った。その唇がぴたりと止まって、名残惜しそうに離れていく。その顔は明らかにむくれていた。
「……明日の朝、覚悟しておいてくれ」
クラウスがそう言い放って、レイを抱きしめて目を閉じた。怖い一言を聞いて、レイは恐る恐る目を閉じる。これはきちんと眠っておかないと、明日一日持ちそうにない――そう思いながら。
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