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第33話 幕開
レイは顔を手で覆いながら、香油が使われた湯に浸かっていた。置型の猫足がついた浴槽の周りを昨日一緒にお茶を飲んだメイドがパタパタと走り回っている。流石に裸を女性に見せるわけにもいかないので、レイは入浴用のドロワーズのようなものを履かされ、薄手のガウンのようなものを羽織わされていた。
「レイ様! ちゃんと肩まで浸かってください! あわよくば首!」
メイドのリエカの檄が飛んで、レイは渋々体勢を変え肩まで湯に浸かった。早朝のノック音で起こされ、クラウスの隣で飛び起きて、寝間着のまま連行されて今に至る。今、クラウスは二度寝の最中なのだろうか。そう思うと非常に腹立たしくなってきた。
「こんなの俺、必要ある?」
『あります』
周りにいるメイドたちの声の揃い方があまりに見事で、レイは顔を覆うのをやめ、思わず遠くを見た。その体勢がメイドたちにとっては都合がよかったのか、
「レイ様! そのまま浴槽にもたれかかって!」
「髪するよー薬液準備ー」
と元気そうな声が聞こえた。言われるがまま浴槽に背を預けると、背中ぐらいまで伸びている髪をかき上げて、浴槽の外に出された。リエカが頭部のマッサージを始めて、レイは慌てて目を瞑った。
「ごめん、タオルでもなんでもいいから、目にかけて。お願い」
女性の顔や胸部が近く、目のやり場に困ったレイは羞恥のあまり呟くように懇願した。頭部のマッサージがいったんぴたりと止まり、目にホットタオルが載せられた。視界が遮られたことによりほっとしたのも束の間。
「レイ様、手出していただけますか? 爪を整えます」
もうどうにでもなれ。レイはそう思って言われるがまま浴槽のへりに手を出した。おもちゃにされている気分が拭えないレイは、「寝ていい?」と聞いたが、誰もいいとは言ってくれなかった。
王城へはクラウスとレーヴェンシュタイン公爵家の馬車で行くと、記者たちにもみくちゃにされる未来が見えるため、レイはクラウスとは別に行くことになった。なんの紋章も入っていない馬車がレーヴェンシュタイン公爵家の敷地の外に停めてあるというので、クラウスが隠密魔法と身体能力強化魔法でレイを横抱きにして空を飛ぶように馬車まで運んだ。わずかな空の旅は、レーヴェンシュタイン公爵家の敷地の外にたむろしている記者の集団が見えて、なんの楽しみも覚えられないうちに終わった。
隠密魔法を解かずにクラウスが馬車の扉を独特なリズムでノックすると、中からバネッサが扉を開けてくれた。昇降階段を上がって馬車に入り扉を閉めると、クラウスは隠密魔法を解いた。バネッサにしてみれば突然目の前に男二人現れたはずだが、全く驚いたそぶりも見せずに、声をかけてきた。
「おはよう。よく眠れた?」
「はい。大丈夫です」
レイは答えたが、クラウスはそのまま頷いただけだった。レイが促すようにクラウスを見ると、クラウスは軽く咳払いをしてから、「問題ない」と答えた。そのやり取りを見て、バネッサが肩をすくめる。
「うん、クラウス、貴方パートナーに恵まれたわね。その調子でどんどん揉まれて頂戴」
「バネッサ、オリンは?」
厭味をものともせずクラウスがそう言うので、バネッサはため息をついた。
「オリンはちょっと別件対応中よ。すぐ来るわ」
「わかった。到着までここにいる」
クラウスの一言に、バネッサは「な!」と声を上げて、切れた唇を押さえたあと、また口を開いた。
「何言ってんの。貴方もそろそろ出発しなきゃでしょう。まだ騎士服に着替えてもいないじゃない」
「しかし、それはバネッサの負担が増えすぎる」
「何もなければ問題ないだけの話でしょう。行きなさい。命令よ」
ぎしりと空気がきしむような幻聴が聞こえそうなぐらい緊迫した空気が流れた。ただの護衛対象でしかないレイは、二人の主張のどちらが正しいかは分からなかったが、あまりの険悪さに思わず口を開いた。
「その、オリンさん? は、どれくらいで到着予定なんでしょうか」
バネッサがクラウスを睨みつけながら小さく息をつき、レイに視線を移した。イライラをなんとか抑えようとしているのが分かる。
「さっき王城を出たと連絡があったから、本当にもうすぐよ」
王城からの距離を考えると、身体能力強化魔法で走ってきたとしたら、確かにそろそろついてもいい頃合いだ。レイは少し考えて、クラウスに向き直った。
「クラウス、もう行ってくれ」
「レイ」
バネッサに対する口調よりも、やや大人しく感じるクラウスの反抗にレイは苦笑した。目が心配だと訴えかけてくる。
「君の心配は分かる。俺は非力で何もできないのに、こんなことを言うのは違うとは分かっているが、万一、オリンさんが何かトラブルに巻き込まれて来られなかったとしても、君は俺と一緒に行くことはできない。そうだろう?」
クラウスの眉がぎゅっと寄る。それを見て、レイは苦笑しながら軽くクラウスの肩をトンと叩いた。
「時間だ、行ってくれクラウス。法廷に立つ美丈夫姿を期待している。直接見ることができるかは分からないが、映像は記録されるんだろう?」
クラウスはレイが叩いた肩にそっと手を置いて微笑むと、一つ息をついて口を開いた。
「レイが一番美しいと思うが」
「なら、公爵家の皆が頑張ってくれたおかげだな。行け」
軽口をたたき合って、クラウスはまた隠密魔法を行使した。瞬時にクラウスの姿が視界から消え去る。
「……気を付けて」
クラウスの声とともに額に柔らかな感触が触れた。次の瞬間には扉が勝手に開いて、ぱたんと音を立てて閉じられる。レイは目を閉じて集中し、クラウスの魔力の気配が周囲にないことを確認してから目を開いた。
バネッサが大げさにため息をついて、足を組んだ。
「いつ見ても奇妙な光景だわ。クラウスが誰かに微笑みかけて、あんな軽口を言う姿を見るのは」
カーテンがかけられた窓の向こうを見るようにバネッサがそう言うと、レイは呆れたように笑みをこぼした。こういうやり取りも、そろそろ慣れてきた。
「そちらの組織がどういったところなのか知りませんが、祖母も驚いてました。鉄仮面が? って」
「そう。実力はあるのに、心を開いてくれるような感じも一向になくてね、皆から一線を引かれてるかも。クラウスは器用になんでもやっちゃうから、基本単独任務が多いせいかもしれないけど」
バネッサが、先ほど切れた唇を人差し指の爪で弄りながら続ける。
「だから驚いたのよね。今回の件で、『助けてほしい』って声かけられたの。そんなこと言われたの初めてだったから」
レイは鞄の中から昨日入れっぱなしにしていたリップバームを取り出して、バネッサに差し出した。
「よかったら使いますか? 『試供品』のリップバームです。化膿止めと、患部の熱をとる鎮静効果を入れてあります。人に差し上げるような容器じゃないのが申し訳ないですけど、滅菌はかけてあります。……色がお好きじゃないかもしれませんが、感想を教えていただけると幸いです」
突然出てきたリップバームに驚いたようで、バネッサは躊躇しながら受け取り、蓋を開けて匂いを嗅ぎ始めた。
「魔法薬士って聞いてはいたけど……その鞄の中どうなってんの? こんなのたくさん入ってるわけ?」
「いや、これはただの……出し忘れですね」
先日フォルトンが同じような言い訳をしていたな、と思いながら苦笑していると、バネッサも同じことを思ったのか「他人のこと言えないじゃない」と笑った。リップバームを魔法で少量くりぬくように掬い取って左手の指に載せ、バネッサは自分の唇に載せ始めた。
「一昨日の夜中に切れてね、ずっと治らなかったの。ありがとう」
「やっぱり、そういう小さい傷とかは、魔法で治したりしないものですか?」
「しないわねぇ。人によっては、するかもしれないけど」
残ったリップバームを返されて、レイは受け取った。正直、返されなかったときクラウスがどう反応するか分からなかったので、レイとしては有難かった。
「ありがとう。そう言えばきちんと自己紹介してなかったわね。私はバネッサ。チームリーダーみたいなこともさせてもらってるわ。よろしく」
「レイ・ヴェルノットです。しばらくの間、よろしくお願いします」
そう自己紹介を終えたところで、馬車の扉が軽快なリズムでノックされた。バネッサが魔法で扉を開けると、誰かがさっと入ってきたような気配だけがして、扉が閉まった。バネッサの隣の座席のクッションがわずかに沈み込む。
「っはー疲れた。クラウスさんはもう行っちゃったんスか?」
男性の声が聞こえ、空気から溶け出すように一人の男が現れた。短く切りそろえられた明るい黄色い髪に目が行く。どうやら染めているらしく、髪の根元は赤かった。がっちりとした体格の長身の男だった。恰好はいかにも「冒険者風」と言ったところで、軽そうな胸当てとガントレットを付けていた。王城に入るため通常許可証がないと帯剣できないためか、得物は所持しているように見えなかった。結局、魔術師には得物なんて必要ないだろうが。
「失礼でしょ、オリン。わきまえなさい」
オリンと呼ばれた男は「へーへー」と良いながら、じっとレイを観察するように上から下、下から上へと舐めるように見始めた。
「オリン」
バネッサから二度目の警告が入る。オリンは面白くなさそうにそっぽを向いた。クラウスから聞いていた「志願してくれた」という割には護衛対象にまったく好意的ではない姿に、レイはどうしてそうなったのか全く心当たりがなかった。バネッサがため息をついてレイに謝罪してきたが、レイは大丈夫と答えながら、この態度がずっと続くのは、流石にストレスがかかりそうだなとは思った。
「レイ・ヴェルノットです。よろしくお願いします」
「……よろしく」
こちらに目を合わせようともせずそう言い放つぶっきらぼうな態度に、バネッサが「オリン!」と語気を強めた。――先が思いやられる。レイが思った瞬間、馬車が走り始めた。
貴族裁判は、王城の一角「審問の間」にて執り行われる。通常の裁判所のような法廷を模して作られているが、裁判官が座る場所が玉座のようになっており、オルディアス王が座ることになる。傍聴席には認められた記者しか入ることもできない上、裁判の内容によっては、被告と取引のある領地としては「どんな話が王の耳に入ったのか」を知るために、僅かな「遠隔傍聴権」を買う貴族が熾烈な戦いを繰り広げることもある。この遠隔傍聴権を買ったとしても、それが全て真実かといったらそうではない。実際は大体1時間ぐらいのタイムラグがあり、全て王権の『検閲』が入る。王権にとって不利益となるようなことが話されれば、記事の内容は薄くなり、遠隔傍聴していた放送については突然『機器の不調』が起こるのだ。
そんな貴族裁判では『真実のみを話す』などという宣誓魔法を使用することが禁じられている。都合の悪い事を知っている人間全員に宣誓魔法を強要し、わざと法廷で話すように仕向けて、簡単に証人を口封じするようなことも起こりうるからだ。――そのため、人は貴族裁判のことを、『虚飾の劇場』などと揶揄することもある。
当初、裁判はレーヴェンシュタイン公爵家の呪いの浄化薬製造における杜撰な管理体制について争点となるはずだった。そのため、マルキオン教授は国家安全保険機構と結託して準備を進めていた。にもかかわらず、調査を進めても、レイが診ていた患者以外からは浄化薬のエラー品情報が出てこない。呪われた患者の情報は貴族の体面に関わる問題にもなり、患者の名を軽々しく公表することができない。それひとつでは立件するのが難しく、仕方なくヴェルノット子爵家の後継者レイの拉致監禁傷害事件を主軸としてディートリヒの後継者としての資質を問う形に争点をずらし、その中の余罪として呪いの浄化薬製造現場の私的流用ともいえる犯行を取り上げざるを得なかった。――貴族のメンツなんて話がなければ、ディートリヒがクラウスへの私怨によるお家騒動だけで済んだ話だった。
レーヴェンシュタイン公爵家ともあれば、正直「やっかみ」から呪われたと想像に易いため、最終的にクラウスが呪われていたことは公表されても痛手ではないとの判断から、クラウスは証言台に立つことを希望している。しかし、可能なのであれば、それは伏せておきたい。オルディアス王はレーヴェンシュタイン公爵家の次期当主にクラウスを据えるつもりだが、本人が「何故呪われたのか」ということについては、絶対に秘匿しなければならない。そうしなければ、握りつぶされたクラウスの母の売国行為も世に出てしまう可能性があるし、自らを呪ったクラウス自身の当主としての資質を問われかねない。
レイは馬車から降りて、審問の間への扉の前へ立った。うまくやらねば、レーヴェンシュタイン公爵家をクラウスが継げなくなってしまう。緊張で汗が滲み、呼吸が浅くなるのを感じる。
「……では、行きますか」
護衛二人に声をかけて、レイは自分を鼓舞して『劇場』へと歩を進めた。
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