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第35話 日常
「――『人生何が起こるかわからないですね。自分が誰かの妄想上の恋人になりうるんですよ? こんな経験、なかなか無いですよね』レイ・ヴェルノットは小さき背を伸ばしながら、まるで歌うように言い放った」
「先輩、読み上げなくていいです」
新聞を読み上げるフォルトンに、レイは不機嫌にそう言い放った。
フォルトンが読んでいる新聞は、一面に昨日の初公判について書いてあったものだ。検閲が入ったためか、どの新聞もディートリヒとレイの人物像の対比が書かれていることが多い印象を受ける。ディートリヒとレイの写真を大きく並べて、『痴情のもつれ公判』などと揶揄する記事もあれば、ディートリヒの領主代理としての実績と人物像に重きを置いて読者に訴えかけるような記事もあった。こういう意味では、貴族社会において社会的地位と信頼というのは何よりも強力な武器であることがよく分かった。フォルトンが読んでいる新聞は、その中でもレイのことを“良く”書こうとしている新聞の一つだったが、レイはその新聞が一番嫌いだった。身長のことは別に書かなくてもよかっただろうに。
しかし、玉座の問いにより、ほぼ判決は原告側に傾いていた。玉座の問いは王の意向と同義で、原告側の主張を認めよという無言の圧力である。しかしレイの弁論の後、通常通りに進められたが、拉致監禁時の詳細な状況説明のくだりで、「魔力拘束具をどのように抜け出したのか」という問いに対し、原告側の弁護士から、防犯上の都合により宣誓魔法を行使しており、およそ3か月間言及できない旨を伝えたところ、「虚偽の主張ではないか」と逆手に取られ、大荒れに荒れた。これは、レイ・ヴェルノットも嘘を言っているのではないか、という印象を植え付けるための策略だった可能性もあり、もしかして魔法捜査一課と病院で話したあの瞬間すら罠だったのではないかと考えてしまって、レイは言いようのない複雑な気持ちになった。その後、国王が突然席を立ったため、公判は中断し、そのまま異例のお開きとなってしまった。次の公判の日付だけが、国王の予定と調整して沙汰が来ることになった。国王が何を考えているのか、諜報部であるクラウスも分からないと言っており、とにかくどっと疲れたレイは、その日はそのまま眠りについた。
どの新聞にも国王がレイに尊顔直視を許したことは書かれていなかった。そのこと自体はレイにとって喜ばしいことであったが、あの新しい玩具でも見つけたような目は、レイに言い知れぬ不安を植え付けた。
「ていうか、こんなことになってたんだったら、言えよ。水臭いな」
フォルトンは新聞を畳みながら、口を曲げて言い放った。レイは新聞に書いてある内容を思い出しながら、苦笑した。その新聞には、レイ・ヴェルノットのことを詳細に記載してあった。伝説の魔術師ルミア・ヴェルノットの孫ということから、魔力回路の先天的な疾患についてまでも、レイがあえてぼかして過ごしてきたことが事細かく。それを読んだ上で、フォルトンはいつもの調子で話しかけてきた。
「すみません」
レイは素直に謝った。「ま、別にいいけどさ」と、フォルトンが畳んだ新聞を自分の鞄に突っ込みながら呟く。それを見ながら、レイは今朝大学に着いてからここ研究室に入るまでの道のりを思い出した。護衛を二人従えて歩く伝説の魔術師の孫の姿を、遠巻きにレイを見ながら声を潜めて話している学生たちの姿。覚悟はしていたが、レイの平穏は崩れた。その中で、この研究室の中にいるゼミ生だけが、レイの姿を普段よりも長く一瞥しただけで、いつも通り調合台やデータの入力補助機に向かって行った。
レイは調合台の準備をしながら、フォルトンに声をかけた。
「……先輩、なんか皆に言いました?」
「べっつにー?」
フォルトンが図書館から借りてきたらしい『魔法薬による染色~緑~』という表題の本を開きながらそう答えた。レイは苦笑しながら、フォルトンの暗躍に感謝した。
「で、バネッサさんは分かるけど、お前のことを熱い視線で見てるそちらの方は?」
明らかにオリンのことを言っているだろうフォルトンに、レイはため息をついた。なるべく視界に入れないようにしていたのに現実を突きつけてくるから容赦がない。オリンの視線は相変わらずで、半ばあきらめている。
「護衛をしてくれている人で、オリンさん」
「オリンさん、ね。よろしくお願いします」
フォルトンが笑顔でオリンを見ると、オリンは会釈を返した。フォルトンは気にする素振りも見せず、また本に視線を落とした。
レイは調合台を拭きあげて、魔力石の残量を確認した。研究室の備品のチェックは、本来ならマルキオン教授の管轄だが、忙しい教授に変わり、院生であるレイとフォルトンが日替わりで行っていた。研究室の調合台は全部で5台。魔法薬士国家試験にも使われる調合台と同じ型式に揃えてある。
「昨日この調合台使いましたか? 魔法陣に軽微損傷ありますけど」
「あー……ほら、実技試験近いじゃん? みんな頑張ってるみたいよ」
フォルトンの言葉に、レイはふと、もうそんな時期かと思った。
魔法薬士免許取得試験は年間通して行われる。筆記試験は1回なのに対し、実技試験だけが年に2回行われる。理由としては、魔法薬の実技については、調薬したものを3か月の保管し、その後品質試験にかけて合格しないとパスできない仕組みを取っており、夏に行われるものは攻撃用魔法薬の調薬試験だ。危険なのもあるが、冬に行われる医療用魔法薬と比べると扱いが難しく、これでふるいにかけて落としているといっても過言ではない。夏の攻撃用魔法薬実技試験を突破しないと、冬の医療用調薬実技に進めない仕組みとなっている。
「今年受けるのって、何人でしたっけ」
「8人。去年と比べると、だいぶ減ったな」
魔法薬士試験は、通常4年生が受けることになっているが、4年の夏に実技試験を突破できなかったものは、その場で浪人するかしないかの選択に迫られる。気合が入るのは致し方ないことだと思う。
レイは調合台の損傷個所を見ながら、眼鏡のずれを直した。
「これぐらいの傷なら、試験会場でもあるかもしれないですけど、これ以上傷が広がる前に修理に出しますか?」
「一回やらせてみたらいいんじゃね? ……おーい! レイが実技試験の練習見てくれるってよ!」
「いや、なんで俺――」
いきなりフォルトンが他の調合台の周りで調薬を観察していたゼミ生たちに声をかけ、レイが呆れたように呟いた瞬間だった。調薬をしていたゼミ生以外がクモの子を散らすように準備に取り掛かった。
「ああー! ずるいー! 私も見てほしいのにー!」
調薬をしているゼミ生だけが調合台を離れられず、悔しそうに泣き声を上げていた。ゼミ生の様子を見ながらレイが茫然としていると、フォルトンがくすりと笑った。
「分かれよ。お前、結構慕われてるんだよ」
本から視線を外さずにそんなことをいうものだから、レイは怪訝な顔をしながら「まさか」と呟いた。その一言にフォルトンがやっとレイに視線を向けた。
「信じてないな? ……まー『迷信を実践する』っていうやつもあるのかもな。ゲン担ぎっていうの? 去年お前が練習見てやった奴、ちゃんと合格してったろ?」
「あの人は人一倍自分で努力してた浪人院生じゃないですか。俺のおかげじゃないですよ」
「結構可愛がってたくせに」
「頑張ろうとしてる人を応援しただけです」
「へぇー告られたからだと思ってたわ」
「……どっからそういう情報仕入れてくるんですか」
聞いた後、答える代わりに悪い顔で笑うフォルトンに、レイは顔を引き攣らせた。
手分けして学生たちが防護エプロンや特殊マスク等の装備品と材料を出して机の上に広げ始め、準備に取り掛かった。レイはその光景を見たあと、壁に貼ってある魔法薬士免許取得試験の試験内容を確認した。
「雷属性の初級魔法薬か」
「つまらんみたいな言い方するなよ。確かに俺たちの時は水属性の中級魔法薬だったけどさ」
フォルトンが一年浪人したため、レイと同時期に受けた魔法薬士免許取得試験は、確かに水属性の中級魔法薬であった。中級魔法薬になると、失敗すると会場が嵐にでもあったかのような有様になったりすることもある。そのため、試験当日は調合台の周りに結界を張るアルバイトなんかもあったりして、これがまた高収入だったため魔法使いたちには結構人気だった。
「魔法薬士の人手不足のせいで試験内容緩和されるって噂ありましたけど、まさか?」
「ありえそうで怖いけど、俺はどちらかと言ったら予算不足じゃないかって思ってるよ。材料費と当日の人件費と、馬鹿にならないじゃん」
「世知辛い……」
レイはそう言いながら、自分も防護エプロンと特殊マスクとゴーグルをつけ始めた。ゼミ生たちの視線が一気にレイに集中する。
「……雷属性の初級魔法薬に使われる材料は?」
保護手袋を嵌めながらレイが質問をすると、ゼミ生の一人が軽く挙手をしながら答える。
「はい。スパークリーフ、エレクトライト結晶、電気蜂の体液です」
「然り。では試験の際に使用する量は?」
「薬瓶2つなので、スパークリーフ2枚、エレクトライト結晶50g、電気蜂の体液8mLです」
「然り。――ちなみに雷属性の中級魔法薬について答えられる者は?」
滑らかに答えていた学生たちが、皆一様に口を閉ざすのを見て、レイはフォルトンを見た。フォルトンは「え、俺が答えるの?」って小さく言ってから、ため息をついて後頭部を掻いた。
「中級魔法薬は初級魔法薬の材料をそのままに、魔力加工によっても変化させることも可能。魔力加工の方法は結構センスが必要だけど、自分の力だけでできるから材料費が抑えられる分、利益が増えるのがいいところ。材料を変えて行う場合はスパークリーフ、エレクトライト結晶、ボルティス鉄鋼、発光溶解液を使う」
「然り。……今回は初級魔法薬に実技が切り替わっている関係で出題されない可能性もあるが、近年筆記試験では、実技試験で出た魔法薬を効果的に強化する方法について記述問題が出る傾向がある。……目先のことにとらわれるなよ。魔法薬士免許を取った後のことを考えないと、意味がない」
レイがそう言うと、フォルトンがにんまりと笑った。
「と、いうわけで、レイ先輩が同じ材料で中級魔法薬を作ってくれまーす」
「はぁ!? 俺が一緒にやったら誰が学生のフォロー入るんですか!」
楽し気に笑うフォルトンに、意味が分からないと表情で訴えかけながらレイは声高に抗議した。それすらもニヤニヤと笑いながら、フォルトンが先ほどの質問に答えてやっただろと言わんばかりに続ける。
「みんなの終わってからやってみせればいいじゃん?」
「……本気で言ってます? ぶっ倒れますよ?」
レイがそう言うと、フォルトンがジト目で見つめてきた。
「この前、同じ技術使って洗髪剤作ってたやつ、いたよな? 名前つけたらあれは、中級洗髪剤か?」
フォルトンの厭味に、レイは閉口した。調薬魔法の二重掛けなんて見せるんじゃなかった。ゼミ生たちの顔を見ると、期待で目がランランと輝かせている。むしろ護衛で来ているバネッサもゼミ生と同じような顔をしているのを見て、レイはため息をついた。
「……一人でも失敗したら、やらない。ていうかやれない。フォローに魔力使ったら絶対倒れる。それでもよければ――」
わっ! とゼミ生が歓声を上げた。フォルトンが調合台で調薬中だったゼミ生に「間に合うか―?」と声をかけに行ったところで、レイは学生たちに「はいさっさと始める!」と声をかけた。ゼミ生たちは一斉に保護手袋を着用して専用の乳鉢でエレクトライト結晶を砕きつぶし始めた。バネッサがその様子を見ながらレイの横に立って耳打ちしてくる。
「……倒れたら、私が処置するよ?」
「そんなに見たいんですか? 医療魔術師としては気になるところかもしれないですけど、見たらきっとバネッサさん拍子抜けしますよ。結局のところ、魔法薬士は医療魔術師の下位互換です」
「あら~そんなこと言っちゃって。リップバーム、よく効いたわよ」
そう言って口角を上げて笑って見せるバネッサを見て、レイも微笑んだ。「それはよかった」そう呟いて、ゼミ生たちに向き直る。
エレクトライト結晶は、以前レイがルミアの魔法薬店で粉砕したシルフロス結晶体よりは簡単に砕ける。研究室中にごりごりとエレクトライト結晶を均一に砕きつぶす音が響き始め、遅れて先ほどの調薬をしていたゼミ生が合流した。フォルトンが遅れてきたゼミ生の代わりに入力補助機にデータ入力をしている姿を見ながら、本当に面倒見がいい、とレイは改めて感心した。この実技練習だって、今朝の新聞のことでレイが皆と線を引かないようにするための心遣いだ。
レイは机に向かうゼミ生の様子を観察しながら、後ろから「もう少し細かく」「もう少し力をいれていい」と声をかけていく。エレクトライト結晶を砕き終わったゼミ生が、電気蜂の体液をスポイトで掬いながら8mL量っていく。準備ができた者からレイにチェックしてほしいと材料を見せに来るので、レイは最初のゼミ生に言った。
「調薬に入る前に、まず何を確認する?」
「調合台のチェックをします」
「具体的に?」
「モードの確認です」
「それと?」
最初のゼミ生が列の二番目についているゼミ生に助けを求め、二番目についていたゼミ生が代わりに答える。
「魔法陣の状態を確認します」
正解が出たので、レイはにこりと笑って魔法陣の一部分を指し示した。
「この調合台、魔法陣にかすれがある。これぐらいなら問題なく機能するはずだが、万一何かの拍子に機能しなくなった場合、自身の魔力で繋ぎながら続行しなければいけない。試験中にはこれぐらいのかすれだったら続行指示が飛ぶ」
そう言うと、先頭のゼミ生の手が震え始めてしまった。瞳が緊張で潤んでいる。レイは、脅し過ぎてしまっただろうかと悩みながら、頬を掻いた。
「安心して。フォローするから」
なるべく優しい声色を心がけて言うが、余計に震え始めてしまった。
「フォローされたらレイ先輩の調薬見れない~~!」
「そっちかぁ……」
レイが呆れて言うと、フォルトンが遠くの方から「泣かすなー」と茶々を入れてくる。よく見てみると、入力補助機の前で先ほど広げていた本を読んでいる。
「……先輩がフォローしてくれるなら、先に俺やりますけど?」
「げっ」
あからさまに嫌そうな声を出しながら、フォルトンの顔がこっちを向く。ゼミ生の期待の顔が今度はフォルトンに向いて、フォルトンはため息をついて本を閉じて立ち上がった。ゼミ生がまた歓声を上げ始める。レイは先頭にいるゼミ生に「もらっていい?」と聞くと、ゼミ生は快く材料を渡してくれた。
レイが受け取った材料を順に調合台に設置し、最終的に収める瓶を二つ置いたときには、全員が作業の手を止めレイの調薬を見ようとしているのが分かる。誰かの息をのむ音も聞こえてきて、レイは苦笑した。
「いや、そんな見られると緊張するから」
「うそつけー」
フォルトンの野次が飛んで、場の空気が緩んだ瞬間に、レイはゴーグルと手袋を取って発熱抑制剤を服用した。
調合台に手をかざし、構成式を頭の中で整えてから魔力を練り上げ、調薬魔法を行使する。調合台の魔法陣が光を放つ。途切れなく魔法陣が光るのを確認して、レイは集中した。
「一歩離れて」
レイの真剣な声が響き、ゼミ生の気配が一歩下がる。調薬魔法により、スパークリーフとエレクトライト結晶の粉末が宙に浮く。スパークリーフが空中で崩れながらエレクトライト結晶の粉末が撹拌されていく。崩れたスパークリーフの粒がエレクトライト結晶と揃い充分に撹拌されたところで、レイの左手から霧状の魔力が放出される。それに反応して、撹拌された粉末が白い閃光を走らせ始める。バチバチと音を立てながらスピードを上げて回り始め、放電し始めるのを調合台が漏れ出ないように抑える。
レイは右手で電気蜂の体液に調薬魔法を行使した。電気蜂の体液が宙に浮かび、レイの右手から液体状になった魔力が、ほんの一適分放出されて電気蜂の体液に混ざると、体液の色が濁った緑色から澄んだ色へと変化しながら膨らんでいく。レイは一度大きく息を吐いた。魔力回路が熱い。それでも、レイはマスクの下で笑った。熱に浮かされる感覚になりながら、レイは右手の指を握りこむようにして膨らんだ電気蜂の体液を濃縮していく。膨らんだ体積が収縮しながら、体液の中で稲光が走り始める。肌が痺れるようにひりつくのも気にせず、レイは魔力加工を施した電気蜂の体液を霧状に変化させて、撹拌していたスパークリーフとエレクトライト結晶に混ぜ合わせると同時に、必要な魔力加工は終わったので、調薬魔法を一つ解除する。
すさまじい音を立てながら、調合台の上でまぶしい稲妻を走らせる霧状の魔法薬をさらに撹拌させる。バチバチと外に出ようとする閃光をまとめながら凝縮していく。――その時だった。稲妻の一本が、魔法陣のかすれた部分に掠めたのをレイは見逃さなかった。
「――くそっ!」
思わず舌打ちしながら右手の人差し指から魔力を放出して魔法陣をつなげた。光を失いかけた魔法陣が保たれ始め、せっかく落ち着き始めた魔力回路がまた熱を持ち始める。ゼミ生がはっと息をのんだのが分かったが、そんなことには構っていられなかった。レイは凝縮した霧状の魔法薬を更に慎重に凝縮していった。息が上がって頭がくらつき始めるが、後輩に、クラウスの同僚に、失敗するところなんて見せられない。これはただの意地だった。
凝縮した霧状の魔法薬を二つに分割して、素早く瓶におさめると、蓋をして安全ピンを刺し、レイは調薬魔法を解除した。瓶の中で魔法薬が淡く安定して発光しているのを見て、レイはそのまま椅子に座りこんだ。――やり切った。その一言に尽きた。
「……すげぇ」
ゼミ生の誰かがそう呟いたのが聞こえる。フォルトンがレイに近寄ってレイの顔を覗き込んでくるが、レイは肩手をひらひらとさせて話せないと伝えた。
「えー……なんだ。いざってときは、こうやって、魔法陣繋ぐんだぜ」
フォルトンの言葉に、ゼミ生が意気消沈していくのが見えた。
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