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第44話 消息

 男は縛られていた。一日一回、残飯のような食事と水が与えられる。排泄についても、一部始終を監視されており、逃げる余地は一切与えられない。雇い主へ連絡を取ろうとした矢先に捕まり、成す術もなく倉庫の隠された巨大地下室に放り込まれていた。  フェリンブル伯爵家が裏で手を引いているペーパーカンパニーの一つが所有する貸倉庫に、その巨大地下室はある。そこには密売用の動物が多数檻に入れられていて、男の目的はその動物の内の一頭だった。地下深いそこは、泣こうが喚こうか、外に漏れることはない。  陽の光を見なくなってから、どれくらいの時間が経ったか分からないが、朦朧とした意識の中、唯一飯の回数だけは数えていた。今日も生きている。もう九回も飯が運ばれてきている。つまり、相手は生かすつもりがあるということだ。生きてさえすれば、もしかしたら助けが来るかもしれない。ただそれだけがその男のわずかな希望だった。  地下室へ降りるための階段の方から、ギッと蝶番が軋む音が聞こえた。さぁ、十回目の食事の時間だ。今日も生きられた。男が首を擡げて階段の方を見るが、誰もやってくる気配がしない。階段の近くの椅子に座っていた見張りが、階段を見上げた瞬間だった。シュッという軽く何かを吹きかけるような音がして、見張りの目がふっと白目をむいた。ぐらりと揺れて倒れかけた見張りの体が、不自然な角度で宙にぴたりと止まった。そのままゆっくりと地面に降ろされ、白目をむいたままの目がそっと閉じられた。 「貴方が、フェリンブル伯爵家に派遣されていた密偵ですか?」  何もない空間から、芯のある澄んだ男性の声だけが聞こえる。男はその声をどこかで聞いた覚えがあるのに、栄養の行き届いていない頭では思い出すことができなかった。男は静かに頷いた。猿轡を噛まされていたため、そもそも声を上げることが困難だった。 「遅くなってしまいすみません。ここの情報を得るのに時間がかかりました。なんせ相手が非魔法使いで、全身に宣誓魔法の痕跡がないか確認する必要があったので」  しばらくすると、見えない指が頬に触れ、猿轡が解かれた。するりと猿轡が地面に落ちるのが見え、男は口を開いた。 「隠密魔法か」  掠れた声でそう聞くと、やはり何もない空間から声だけが聞こえる。 「はい。でも、私はかけ直しができないので、今姿を現すことができません。直にあなたの派遣元が救援に来ます。もうしばらく耐えてください」 「……助けに来てくれたんじゃないのか」  男が聞いたが、声の主は何も答えない。しばらくすると、背中に誰かが触れる感触がした。直後、まるでぬるま湯に放り込まれたかのように、へばりつくような温かい空気に全身が包まれた。 「……栄養状態が悪すぎる」  声の主が呟くようにそう言うと、温かい空気がかき消えた。男の目の前にいきなり青い水が入った瓶が出現し、地面にコトリと置かれる。 「その状態では歩けないでしょう。とりあえず、それを飲んでください。回復ポーションです。あまり即効性があるものではありませんが、救助が来る頃には歩けるようになるでしょう」  言い終わるころには、男の拘束は解かれていた。のどの渇きも限界で、男はポーションに飛びつき、ごくごくと一気に呷った。少しとろみの付いた感触のそれが食道を通り胃へ落ちていく。落ちていった先から、何かが全身にしみわたっていく感覚がする。――助かった。男にとっては、確かな安堵だった。 「――ディートリヒ卿の大切なものとは、どれです?」  男は聞かれたことに、忠実に答えたかった。だが、極度の疲労のせいか意識が落ちそうで、数ある布がかけられた檻の一つに指をさすにとどまった。そんなことよりも、声の主の『ディートリヒ卿』という言葉が男の耳に残った。やはり、この声は聞いた覚えがある。どこだ。おそらく直接ではない。何かの音声か映像媒体だ。最後に見た媒体は――。  考えている間に、示した檻にかけられていた布が取り払われた。地下室にある弱いランプの光に照らされて、檻の中に白銀の毛皮が現れる。毛皮の主は弱々しく息を吐きながらも、赤い眼を何もないはずの空間に向けている。 「……銀狼か。特級保護指定生物じゃないか」 「ディートリヒの秘密さ。自分がいないと生きていけない、そういう環境においておける、心の拠り所って奴だろ」  何とか説明したが、男はもう瞼を開けることができないぐらい強い眠気に襲われていた。  男はフェリンブル伯爵家が隠したディートリヒの弱味を探していた。貴族としてのプライドだけは一級品のディートリヒが、第二王子陣営に加担する理由が他に思いつかなかった。そして、実の弟ですら知らなかったその秘密は、フェリンブル伯爵家によって暴かれた。特級保護指定生物は、私有が認められていない。それをディートリヒは密売するでもなく、手元に置いて長く共に過ごしていた。――まるで、家族のように。 「……ごめん、ちょっとだけ、毛を切らせてもらうよ」  声の主が優しく銀狼に声をかけ、シャキンッという軽い音とともに銀狼の長い毛が一房切り落とされるのが見えた。切り落とされた一房の毛は、拾い上げられたのか突然視界から消えた。  男は薄れゆく意識の中、ようやくその声の主に思い至った。 「お前……レイ・ヴェルノットか」  男の質問に、声の主は答えない。答える代わりに、声の主がそっと「おやすみなさい」と声をかけてきたのを最後に、男は意識を手放した。  オリンはリャンディン・タウンの飲み屋街を歩いていた。仕事の時以外では近寄ることのなかったこの町にまさかフォルトンが遊びに来ているとは思っていなかった。リャンディン・タウンなんてアウトローが闊歩するような街で飲むというのだから、オリンにとっては全く意味が分からなかった。いくら友人がそこに住んでいて慣れているといっても、手放しで褒められることではなかった。しかも、今回飲みに誘われたのが女装バーなどという色物だというのだから、余計に意味が分からなかった。――面白そうではあるが。  リャンディン・タウンは、色々な文化を飲み込んだ魔窟と言っても過言ではなかった。根付いた移民が母国の料理を提供する店もあり、嗅いだことのないスパイスや煙の香りがする。長期休みの時期ということもあり、通りを歩いている人の数は、過密とまではいわないが、スリが出てもおかしくないぐらいの人数は歩いており、オリンは周りを警戒しながら歩いた。  女装バー『ロンロン』と派手に書かれた看板の前で立っている明るい茶色の髪をした、いかにも人が良さそうなオーラを放っているフォルトンの姿が見え、オリンはその後ろの『ロンロン』に目をやった。以前仕事で来たときは、さびれた飲み屋だったと記憶しているが、ここ数年でオーナーが変わったのだろう。前の店の面影もなく、魔力石を使った明るい電灯で飾られた看板には、バニーガール姿の筋肉隆々の男がデフォルメされて描かれていた。本当に訳が分からない。  フォルトンに近付くと、当の本人は呆れたような顔でオリンを見てきた。 「髪の色、そのままで出勤したの? クラウス卿に何か言われなかった?」  その一言に、オリンの顔は歪んだ。クラウスは、一度こちらをじっと見ただけで何も言わなかった。その瞳はいつも通りなんの感情も宿さず、ただ一瞥をくれただけだった。  オリンは大きく息を吸って、両手を後ろ頭で組み、吐き捨てるように言った。 「クラウスさんは、そういうの気にする人じゃねぇのよ。むしろバネッサにも何も言われなかったぐらいだ。誰も、俺に興味関心をもってねーの!」  我ながら少し幼稚な発言だったかと思ったが、フォルトンはただ少し首を捻っただけだった。 「……気を遣ったんだと思うけどなぁ」  フォルトンの一言に、オリンは少し気持ちが落ち着かなくなった。何も知らないくせに、楽観的にそう言うところが、たまに鼻につく。そんなこちらの気持ちなど知らないフォルトンは、そのまま『ロンロン』の中へ入って行った。  店の中は、少しオレンジがかった暗い間接照明で照らされていた。狭い店の端には4人掛けのテーブルが3つと、8人が座れるバーカウンターがあるだけだった。外観のような派手さはインテリアにはないが、その代わり店員が派手だった。上流階級ではタブーとされている過度な露出のあるドレスを着ている人もいれば、長いスリットの入ったタイトスカートからガーターベルトで吊ったタイツを惜しげもなく見せている人もいる。しかし、ほぼ全員がガタイの良い男性で、カツラを被っているのか、眉の色とあっていない見事なブロンドカールの髪や人工的なキューティクルが光る艶やかなロングヘアから、派手な化粧をした顔が覗いている。  見慣れない光景にオリンは思わず固まったが、フォルトンはけろりとした態度で「二人です」と声をかけていた。 「あれ、アンタ、パーク坊のとこの?」  店主とみられるブロンドカールヘアの男が、わざとらしい裏声でフォルトンに声をかけていた。 「そう、友達」 「あらヤダー、久しぶりに見たわ。元気ー?」  突然始まる身内の会話に、オリンは黙ってメニュー表を見ていた。まだ夕食を食べていなかったので、正直先に腹に何か入れたい。 「アーロンさんが『ママ』やってるっていうのは聞いてたけど、ずいぶんはっちゃけたね」 「もうね、開花よ、開花。咲いちゃったの」  アーロンと呼ばれた店主の言葉に、他の店員2人が口々に「ずいぶん汚ねぇ花だコト」「雑草狂い咲き」と揶揄している。見ているだけで胸はいっぱいになりそうだが、腹は満たされない。オリンはフォルトンに促すようにメニューを渡した。  フォルトンはメニューを受け取ると、上から下まで目を通したあとにオリンに聞いてきた。 「明日は仕事何時から? どれくらい飲む?」 「腹減った」 「ならちょっと食べようか。ママ、なんかお腹に溜まりそうなメニューない?」  アーロンがバーカウンターの中から裏のキッチンに向かって声をかけた。 「ノルド~。腹ペコ用なんかある~?」  しかし、キッチンからは何も声が返ってこない。アーロンは仕方ないとキッチンへ大股でずかずかと進んでいった。何やらぼそぼそと話している声が聞こえて、「あ~」という納得と言わんばかりのアーロンの声が聞こえてくる。その後すぐに、アーロンがキッチンからひょこりと顔を出してきた。 「アレルギー、嫌いなものは?」 「特になし。オリンは?」 「無ェ」  質問にそう返すと、アーロンはキッチンにいるノルドと呼ばれた人と二、三言ほど言葉を交わしてから戻ってきた。 「フィッシュアンドチップスぐらいしかないって。あとはチーズとパンとソーセージ」 「いいね、よろしく」  フォルトンの声が聞こえたのか、キッチンから油に揚げ物が投入される音が聞こえた。軽めの酒を頼むと、ビールとオレンジジュースを割ったものが出てきた。こんな飲み方をしたのは初めてで、オリンは少し戸惑った。 「こういうのをさ、経験として楽しんでおくのもいいもんだろ。たくさんあるよ、リャンディンにはね」  口数の少ないオリンに、フォルトンがそう言いながらグラスをこちらに傾けてくる。オリンは苦笑いしながらそのグラスに軽く自分のグラスを当て、口をつけた。ビールに使われている麦の香りとオレンジのビターな香りがして、最初は受け付けなかった味も、飲み進めると意外と癖になる。グラスの中が半分程になったところで一気に呷って、オリンはもう一杯とアーロンに伝えた。 「そんな飲み方するなんて、何、失恋? 酔いたいんだったら強いの出すわよ?」 「いい。酔いつぶれたいわけじゃねェ」  アーロンの言葉に、オリンはぶっきらぼうに言い返した。フォルトンはまだ残っているグラスの中身を傾けながら、笑った。 「今日はどんな感じ? 話したい感じ? ちょっと寂しい感じ? どれ?」  フォルトンがニヤつきながらそんなことを言うので、オリンはスッと目を細くしてフォルトンを見た。 「それ、女によくやってるヤツだろ」 「失恋したヤツがしたいことなんて男女関係ないよ。女の子にはもっと言い方は変えるけど。弱ってるときに付け込んだって思われたくないから、もっときっちり線を引く」  そんな話をしていると、キッチンから薄茶の髪の男性が出てきた。アーロンの横を通るとその細さと小ささに目を惹く。露出の多いドレス姿が他の三人の店員と比べると似合い過ぎていて、逆にこの店では異質に感じた。おそらくこの男が先ほどキッチンでアーロンが話していたノルドと呼ばれた男だろう。パンとチーズとソーセージが載った皿が目の前に置かれる。 「ねぇ、昼間のさ――」  隣の席のフォルトンが少し身を乗り出して、いきなりノルドに話しかけた。話しかけられると思っていなかったのか、ノルドは一瞬びくりと体を震わせる。 「あの『虫よけ』、誰が作ったの?」  ノルドはじっとフォルトンとオリンを見た後、アーロンに目をやって軽く首を振ってそのままキッチンに引っ込んでしまった。その様子を見て、アーロンは少し言葉を選びながらフォルトンに語り掛けた。 「ごめんねぇ。あの子、極度の人見知りでね。最近やっと人前に出られるようになったけど、まだ話せないみたい」 「……そっか。いいよ。気を悪くさせてしまったなら、謝っておいてくれる?」  フォルトンは何やら腑に落ちていないようだったが、そうアーロンに伝えた。その言葉の選び方に、オリンは良い奴が過ぎると大変だなと思った。その時だった。  突然耳につけていた小型の機械がブッと低い音を鳴らした。応答せよとの合図だ。さっき退勤したばかりだというのに、本当にあの職場は人をこき使うことに慣れ過ぎてはいないだろうか。 「悪ぃ、ちょっと外す」  そう言って、オリンは店を出ると、そっと物陰に隠れて防音・傍受阻害用の小結界を張った。 『オリン、すぐ来て欲しいの、場所は――』  バネッサの声が小型通信魔法機器から流れてくる。 「飲酒済みですけど、何があったんスか」  オリンがため息交じりにそう言うと、バネッサから「こんな時によく飲めるわね」と小言を言われた。 『フェリンブル伯爵家にもぐりこませてた密偵の救助要請よ。ゴースト会社の貸倉庫で監禁されてたらしいわ。地下に密売用に捕獲された指定保護生物もいるって。人手がいるわ』 「連絡取れたんスか」  質問すると、バネッサから即座に否定が入る。 『……この情報、持ってきたの誰だと思う?』  勿体ぶんなよ、と喉まで出かかった言葉を飲み込んで、オリンは「誰っスか」と聞いた。すると、バネッサからとんでもない答えが返ってきた。 『――レイ君よ。ディートリヒが握られている弱味を探ってたらしくて、見つけたからってタールマン様経由で連絡をよこしてきたみたい。クラウスが聞いた瞬間、タールマン様に掴みかかってこっちは大変なのよ! とにかくオリンは現場に向かって!』

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